#065 自意識の来た道 2010.12.09.THU


■先日、数人の知人と居酒屋で飲んでいると、中の一人の女性が次のようなハナシを始めた。

『会社内で、最近、女装して出勤してくる後輩の男性社員がいる。会社につくと、化粧を落とし、スーツに着替えるのだけれど、退社時にはまた、女モノの服を着て、化粧をし、時にはウィッグを装着して帰ってゆく』。

それで、彼女はその男性社員の教育係でもあるので、一応問い質したそうである。別に今のところ業務に支障は無いので咎めるわけではないが、若し理由があるのなら教えてくれないか、と。するとその男性社員は言ったのだという。「女性の気持ちが知りたいのです。分りたいのです。別に変態というわけではありません。男として、女性が普段どんな気分で化粧をし、スカートをはいて歩いているのか、それを体験として学習したいのです」と。いわゆる性同一性障害などではナイという。そこでは私は彼女に聞いてみた。「女性の気持ちが分りたいから女装をするのだという、その男性の気持ちを、君は理解できる?」彼女は答えて言った。「理解不能だわ」。

■その夏、私たちは映画を撮っていた。17歳、高校二年生の夏休みのことだ。いわゆる自主制作映画であり、世の中のほぼ全ての自主制作映画がそうであるように、最低最悪の駄作であり、同時に大傑作であった。なにしろそれはゾンビ映画だった。ある日、平凡な男子高校生である主人公が目を覚ますと、家族が全員ゾンビになっている。学校へ行っても、クラスメートは皆ゾンビだ。しかし中に数人、まだゾンビ化していないマトモな男子学生もいる。但し、彼らは全員、女子用のセーラー服を着ているのだ。そしてとまどう主人公にこう言う。「俺たちは、ゾンビではない。実は、幽霊なのだ」・・・全くアタマが狂っていたとしか思えない脚本だが、我々はマジだった。この脚本を書いたのは勿論私である。

■さて上記のようなストーリーなので、男性俳優が女子用のセーラー服を着なくてはならないのだが、ここで問題が起きた。制服自体は理解ある同級生の女生徒から調達してきたものの、そのスカートが短すぎて、パンツが見えまくるのだ。どのアングル、どのポーズ、なんならただ立っているだけなのに、どうやっても隠し切れずにパンチラしまくってしまう。それでは困るのだ。このシーンでは男たちはセーラー服を何の違和感もなく、完璧に着こなしていなくてはならないのだ。男たちがセーラー服を着ている姿がこの世界では最も自然に見えてくる、そういうシーンでなくては困るのだ(書いていてアタマが痛くなってきましたが)。このままでは唯のシモネタ、下品なおちゃらけになってしまう。冗談じゃないぜこれは芸術なんだマイ・ゴッド!

■そこで緊急会議を開いた結果、メンバーの一人が彼女を呼び出し、同じ制服を着込んでもらう次第となった。するとどうだ!全く同じ制服を着ているのに、彼女は全然パンチラしないのだ。一流のサッカー選手のボールさばきが時に「足に吸い付いているようだ」と形容されるように、彼女が如何に動こうとも、あの短いスカートのプリーツその一つ一つが一糸乱れぬ動きでもって、まるでヒップに吸い付いているが如く華麗に纏わりつき、臀部を優しく隠し続けるではないか。試しにもう一度男性俳優に同じスカートを着用させ、彼女と同じように動くよう指示した。まるでダメだ。スカートは言うことを聞かず、初めてサッカーボールを与えられた子供が力いっぱい蹴飛ばしたようにコントロールを失い、無残にパンチラし続けるのだった。

■早いハナシが、男は「その部分」に意識がないのである。自覚した意識のない箇所を制御することは出来ない。これは自意識の問題である。彼女たちは、あの短すぎるスカートを毎日履き続けることでその御し方、コントロールの仕方を実践的に身につけたのだ。その日ちょっとスカートを履いてみた男子に、即座に同じ芸当が出来てたまるものか。身につけるべくは、身のこなし、などという技術ではない。自意識の発見、そのものなのだ。

■世の中には「上手い」役者と「下手な」役者がいるという。その定義はマチマチであるが、しかし見て一発で「上手い」或いは「見てらんない」と思う役者は確実に存在する。それは結局、身体のどの部分、どのレベルまで「意識」できているかということに尽きるのではないか。勿論技術の問題はある。だが技術とは、発見した自意識を制御するために必要なものなのであって、そもそも意識できていない箇所を技術によって制御することは出来ないのだ。より多くの「意識」を高度な技術でもって「無意識に」飼いならしている役者こそ名優と呼ばれるに違いないと今、私は思う。あの短いスカートを履きながら決してその中身を見せることなく毎日を自然に過ごす女子高生のように。自分がパンチラしていることにも気付かない役者を私たちは正視することが出来ない。だからきっと、名優は女装したとしても、決してパンチラはしないハズなのだ。何だか前にも同じようなことを書いた気もするけれど。

■そんなワケで私は、次にまた、件の友人女性に会ったときには聞いてみたいと思う。「女装をするという君の同僚、パンチラはしていなかったか?」と。

■ところで、結局その映画はどうなったのか、といえば、勿論完成しなかった。世の中のほぼ全ての自主制作映画がそうであるように・・・。

小野寺邦彦