#052 打たれ弱い天使 2010.08.29.SUN
■NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」を観ている。
■土曜日の午前中に一週間分の再放送をしているので、それを観る。ホームドラマになってしまうとあまり観ていられないのだが、まあまあ面白い。こういうのは分りやすくて良いのだ。で、先日もそれを観ていたのだが、ドラマの中で祖母が孫に対して「ボーっとして歩いてると車に轢かれるよ」と言うセリフがあった。
■懐かしいなあ。今、こういう言葉は全然聞かなくなった。私が子供のころはまだ結構言われた覚えがあるが、やはり年寄りに多く言われた気がする。あらゆる点で極めて平均的な脚本だが、ポンとこういうセリフが出てくるところがやはり侮れない。舞台は昭和40年代、お婆ちゃんが小学生の孫に掛ける言葉としては満点のセリフである。目立たないが、重要なセリフだ。
■今、ボサーっとしながら歩いている子供はどのようなコトバで注意を受けるのだろうか。ゲームをしながら歩いている子供というのは結構いるし、手元の携帯を操作しながら歩いている者もいるだろう。ちなみに私はよく本を読みながら歩いていた。本に顔を落としたまま、道をちゃんと曲がって家に辿り付けるテクニックを身につけていた。そんな私に対して、道行く人が声が掛けてきたことを覚えている。曰く「歩くことに集中しなさい!」・・・本を読みながらでもちゃんと歩けている、と思っていたのはどうやら自分だけだったようだ。実際は相当フラフラしながら歩いていたのだろうと思う。かなり投げやりな歩き方だったに違いない。おかげで(かどうか分らないが)今でも私は歩き方がヘンである。靴の減り方もあり得ない程に奇妙だ。
■今はどちらかと言えば「ボーっとして運転してると人を轢いちゃうよ」という時代なのだろう。これなら違和感はナイ。変わるなあ。セリフは時代で如実に変わるよ。私の書いている芝居にはあまり関係のないタイプのセリフではあるけれど。
■夕方から高円寺で友人と会ったのだった。
■彼は映像作品やアニメーションなんかを作ってウェブサイトで公開しているのだけど、時折来る酷評や作品を罵倒するようなメールなんかに「すぐ心が挫ける」のだと言う。そんなモノ、問題にしなければいい。作りたいものを作りたい様に作るしかない。作品を作って公開している以上、見た人全員に絶賛されることなどありえない。・・・そういうコトは理屈では分っている。分っているのだが、でもやっぱり心が沈んでしまってしばらく身動き取れなくなってしまうのだと。「俺は打たれ弱いからさぁ」友人は何度もそう言った。
■これは何となく思うことなんだけど。「打たれ弱い」ことを表明している人には、そういう人を痛めつけてやろうという「攻撃」が集中してやってくる気がするのだ。ヤツラはどうも、作品を叩かれ、ショックを受ける人を見たくて堪らないらしいから。ちょっと理解し難いが、そういう人種は確実に存在する。僕も芝居なんぞをしていて、作・演出をしているから、アンケートでボロクソに書かれることはしょっちゅうだ。ナニを思ってか知らないが、そんな酷評のアンケートをワザワザ持って来て僕に見せ、嬉しそうに「どう?ショック?傷ついた?」と嬉しそうに聞くスタッフも、過去にいた。「いや、まあ、仕方ないよね」と無難にかわそうとするも、「いやあ、傷ついてるでしょう?」「ショックなクセに」「無理してるよね」としつこい。根負けして「まあね」と答えると満足そうに頷いて「まあ、クヨクヨすんな」なんて言って去っていく。後日、人づてにそいつが「いやあ、小野寺に酷評見せてやったらヘコんでたよ。あいつ、傷つき易いよなぁ」と触れ回っていると聞いた。いや、ホントに何だったんだ、アイツは。
■確かに「打たれ弱い」人はいるのだろう。私も人から見たら「強がっているだけ」で「本当は弱い」クセに、と映るのかもしれない。でもそれが悪いとは全然思わない。むしろその「打たれ弱さ」「心の弱さ」があるからこそ作れる作品もある。自信満々で「強い」ばかりの人が作った作品は、個人的にはあまり好きではない。どうしてこんなに「弱い」のに、人前に出るのだろう?どうして傷つくことが分っていながら表現を止めないのだろう?むしろ、そんな人の作品に心が動く。傷ついてでも、表現欲が勝つ作品。以前も書いたことだけれど、それが作品の佇まいというものになるのだと思う。そこにあることが当然である、といった顔をした表現は、ちょっと苦手だ。かと言って卑屈なものも嫌いなんだ。そこら辺は、まあ趣味だろう。
■友人とも、卑屈にならなければいいんじゃないか、と話し合った。勿論、自分自身にも言い含めるコトバとして。ヘコむのは仕方ない。でも卑屈はだめだよ。卑屈はなあ。貧しさしか産まないし。
■夜、帰り道。お祭りの帰りらしい小学生の集団が、力いっぱい自転車を漕ぎながら、モノスゴイ奇声を発して通り過ぎていった。ギョエー!とかキエー!とかウヒャー!とか。小学生の気も触れる8月終わり。その声は、去ってゆく夏休みを惜しむ悲鳴のようだった。目の前に立ち塞がる宿題への悲鳴かも知れないけど。
小野寺邦彦
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トウキョウ・エントロピー