#041 舞台に「立つ」問題  2010.05.07.FRI


■大分書くことが溜まってしまったので、忘れないうちに次々書く。

■一月ほど前のことだ。某劇団所属の役者の友人から公演案内のメールが届き、そこには『また舞台に立つことになりました』云々、と書かれていた。

■これは宮沢章夫さんの本にも書かれていたことだが、何故役者及び舞台関係者の多くは、芝居に出演することを「舞台に立つ」とか「板に立つ」という言葉で表すのだろう。何故「立つ」なのか。「舞台に出る」とか、「芝居をする」とかではダメなのか。あるいは「芝居に居る」というのはどうか。怖いでしょう、住みついているみたいで。『あたし、今月末からあそこの芝居に居るの』。ちょっと不思議ちゃんだ。ま、それはそれとして、この「立つ」という表現が、役者の何かメンタルな部分を刺激するコトバなのだろうとは思う。意気込みのようなものか。では、舞台に「立つ」とはどういうことか?周りの役者、と称する人々に少し聞いてみたが、誰も答えてはくれなかった。勿論、僕にもそれが何なのか、分らないでいる。

■ところで先日、シンガーである友人(女性です)のライブを聞きに、ふらりと高円寺まで出掛けて行った。開演時間からは大分遅れて行ったのだが、彼女の出演時間はまだ少し先で、ステージでは格好良いバンドが演奏中だった。彼らの演奏する姿は実に堂々としていて、観客の人気を集めていた。そこに居ることを歓迎された佇まいだった。

■バンドの演奏が終わって、ちょっと間を置いてから、彼女の番になった。アコースティックギター一本を抱えて現れた彼女の姿を見て、けれど僕は戸惑ってしまった。小さいのだ。彼女の体が、とても小さい。僕は普段の彼女も知っている訳だが、決して小柄、というわけではない。そもそもそういった体格的なことでもなくて、何というか、オーラの問題だ。恥ずかしがっているというのか、ギターに隠れようとしているというのか、今にも帰ってしまいそうで、頼りなく、その佇まいが、直前のバンドとあまりにも違ったために、僕は混乱したのだ。だが彼女は帰らず、そのまま演奏を始めた。

■演奏の間中、彼女はやっぱり恥ずかしそうで、儚く、消え入りそうだった。もう一押しで崩れ落ちてしまいそうなところを、何とかギターにしがみ付いている、という感じだった。それは前述のバンドの自信に満ち溢れた佇まいとは真逆のものだった。彼女は終始、恥ずかしそうに俯き、ギターを失敗しては頭から演奏をやり直し、ポツポツと歌った。次の瞬間にはもう、歌うのをやめて帰ってしまいそうなのに、彼女は帰らず、歌い続けた。

■それは、怖ろしく感動的な光景だった。

■もしも舞台に「立つ」という言葉が、その場に「居る」だけではない、その演者に特有の佇まいを指しているのだとしたら、その晩の彼女の演奏こそ、彼女だけの「立ち」方だった。彼女は彼女の方法で、確かにあの場に「立って」いた。恥ずかしそうに、消え入りそうに、僕はあんな風にして演奏する人を他に知らない。あんな風にして演じている役者も見たことがない。きっと、だから、感動したのだと思う。人前には立ちたくないが、でも立たずには居られない何かが、彼女をギリギリで、ステージに押しとどめていたのではないか。羞恥と表現欲とがぶつかって、かろうじてほんの一目盛り、表現欲が勝った。そのせめぎあいの現場を見せられた気分だった。それを、表現とも、あるいは決意とも呼んでもいいだろう。少なくとも僕にとっては、『受け入れられること』を自明のものとし、『そこに居ること』にそもそも何の疑いも持たない自信満々のバンドよりは、遥かに魅力的だった。決意だけが人を撃つのかも知れない。板に「立つ」とは決意の現れなのだろうか。だがそれは、果たしてコトバにするようなことなのか。

■そんなことをボンヤリ考えていると、彼女が寄って来た。感想を聞かれて、「いや、まあお疲れさん」などとつい何となく、言葉を濁してしまった。すると彼女は照れたように笑った。いつもの、彼女だった。

小野寺邦彦