#080 不器用 2011.06.05.SUN


■近所にある深夜営業のスーパーの一角に、近ごろ真夜中のスイーツという破滅的なコーナーが設けられており、連日、主に終電帰りのOLで静かなる大混雑となっている。香水やアルコールその他でムセ返る中、皆、異様に殺気立ち且つ気配を殺しながら虚ろな眼差しで黙々とスイーツを選んでいる。この雰囲気に強烈な既視感を覚え、何だったろうかと熟考したところ、そうだレンタルビデオのAVコーナーだった。

■『えっと、えっとね、何だっけホラ、おもち入ってるうどん!おもち!え?力?そう……力もち!力もち食べたい!!』 ・・・言いたいことは分かる。力いっぱい分かるのだ。

■偉人伝や伝記、あるいはドキュメンタリーなどで、取り上げる人物の人となりを伝える際の常套句として『不器用な人であった(ある)』という表現をよく使う。だが『器用な人であった』とは絶対に言わないのである。この場合の「不器用」とは褒め言葉であり、計算高くない、欲の無い、小賢しくない、高潔あるいは無垢な人格というようなニュアンスを含んでいる。『器用な人』と言うと、目端が利いて立ち回りが上手いとか、あるいは小さくまとまっていて何でもソツなくこなすが他を圧倒するような突出した才能はない、といったような、いわゆる「小物」っぽいイメージがしてしまうものである。しかしこれもまた、常套句による欺瞞、錯覚であろう。実際には相当器用にいろいろなことをこなしてしまう才人であっても、「でも女には不器用だった」「でもお金には不器用だった」「家庭に関しては不器用な人だった」などなど、意地でも不器用一丁追加されてしまっているケースばかりである。非凡な才能や、それによって成された功績に対して「でも、完璧ではないよ」「親しみやすい一面もあるんだよ」と、人格面で、普通の人アピールを追加してくる。「不器用」はそのための最もイージーなスパイスというわけだ。

■昨今蔓延するこの「親しみやすさ」という概念は、しかしいったい何なのだ。物語には共感ばかりが求められ、人物(キャラクター)には「親しみやすさ」が必須項目として付いてくる。全ては観客がスムーズに感情移入できるための装置として。・・・しかし、だ。感情移入とは、何も共感ばかりから引き起こされるものでもあるまい。全く想像も同調も出来ない異次元の出来事に、眩暈がするような興奮でもって引き込まれるという経験がないものだろうか。あらゆることを「器用に」こなし、一切の傷はなく、トラウマも心の闇もなく、それでいて魅力のある人物、例えばそんなキャラクターが中心にデンと居座るような物語を、作家は創造することが出来ないか?「すっごい分かった」「理解できた」、それが「面白かった」の意味で使われる現状である。自分が何故感動しているのかも理解できないけれど、でも確かに感動している。そんな人間を、目の当たりにしたいものである。まさに今、感動している人間を目の前で見ることが出来る。だから芝居は、演じる側にとっても、感動的なのである。・・・と、書いている今この瞬間も、有線放送から聞こえきた歌の歌手はこんな風に紹介されていた。曰く、『圧倒的な共感を呼ぶ歌詞が大人気』。別にそれ自体には、まったく文句はないのだけれど。

■すっかり小言ジジイと化している。

■そんな自分はどうなのかと言えば、次回公演へ向けて少しずつ台本を進めている。フと気を抜くとすぐに自分に取って自然な方向、容易な方向へと話を進めてしまい、あわてて消したりしている。なるべく意識的に、自分の発想の一番遠いところ、思いつかないところ、この先どうなるのか全く見当もつかない方向へ。死角、死角へと回りこむように話を繋いでゆく。私はプロットなどは立てて書かない。プロットというのは、物語ではないからだ。あらゆるプロットは、プロットそのものの段階では例外なく凡庸なモノである。プロットが立てば物語が出来た、と思うのならば。それはもう悲惨なモノになる。プロットとは、確かに物語の骨ではあるが、観客は骨を観に来るワケではないのだ。骨の上に載った肉を観に来るのである。(この前観に行った演劇部の公演で脚本を書いた君、肝に銘じておくように。なんてな)。さて今、私はその肉が乗る骨の部分を、プロットではない、別の要素に置き換えて書いている。ソレが何かは企業秘密ですが。まあ、気分の問題ではあるのだけれど、これは今のところ、私には合っている方法のようである。楽しく書き進められている。目指すものは見えている。それは勿論、『分からないけど、面白い』。見えてはいても、遥かに遠い。道のりは困難だが、困難もまた、愉し。

■夜半から、唐突に雨の音。日曜の夜、わけもなく急いていた心が、ゆっくりと落ち着いてゆくのを感じる。水滴が雨どいを伝っておちる、その規則的な音の合間に、フと誰かの口笛が聞こえたような気がした。

小野寺邦彦