#079 長距離ランナーの誤読 2011.05.15.SUN


■正午過ぎの東京駅にて。マキシ丈ワンピースの両裾を高々と持ち上げてふくらはぎまで剥き出し、下り列車のホームへと向かう長~~いエスカレーターをズドドドドドドと物凄い勢いで駆け下りてくるアゲ嬢とすれ違う。そうかあれがシンデレラか。

■『私はガラスのハートだよ。耐震強化構造だけど』と、バスに乗り合わせた女子高生が。

■最近何人かの人と話していて、立て続けにオヤ、と思うことがあった。それは例えば映画や小説や演劇などの話をしていて、その人が物語の筋(ストーリー)を明らかに誤解/誤読しているな、と感じる場面でのことだ。それを指摘すると、みな一様にこう言うのだ。『でも私はそのように読んだのだから』と。

■即ち、作品とは世に出た時点で作者から独立して存在しているのであり、例え作者が意図した方向へ「私」の理解が誘導されなかったとしても、それは読者個人の自由である、と。完成された作品の前では、作者であろうと一読者に過ぎず、その意見もまた「私」と同格の「一読者の解釈」に過ぎないというワケだ。即ち全ての意見は同等・並列であり、解釈に「正解」や「間違い」が存在しない以上、「私とあなたの意見は違う」とは言えても「あなたの理解は間違っている」とは断じて言えないハズだ、さらに言えば、仮に「物語を読み取れていない」と言うのであればその責任は、そのように読み取れないハナシを書いた作者にある、と。まあ大体このようなコトである。

■それは一見正論のようにも聞こえるのだけど、しかし果たしてそうか?常に自分の「解釈」でのみ作品を読み解くことに飽き足らなさ、退屈さを感じることはないのか?全ての意見は同等であり、理解に優劣の差はないのか?・・・そうではない。ハッキリと書いてしまうが、物語に「正解」はある。その上で、その「正解」を-すなわち作者の意図そのものを-一読者としてどのように読むかという醍醐味が物語にはあるハズだ。家に帰る道のりが分かっているからこそ寄り道が出来るのであって、やみくもに歩き回って、結果たどり着いたどこかの家が「自分にとっては家なのだ」と言う人はいないだろう。「読む」には技術も経験も知識もシッカリと必要なのだ。そして例え現時点でそれが足りなかったにしても、自分の知らないことがある、そのこと自体にワクワクすることはないのだろうか?やがて力をつけて、かつては「読めなかった」物語が「読めた」ときのゾクゾクとくる快感!決してカマトトではない。物語を「読む」とは須らくそういうものなのだと、思い込んできた。

■少なくとも私はいつだって、自分の知らないもの、分からないもの、見たことがないものを物語に求めている。だから共感のみを求めて「あるある~」と言われるのが目的のような「いい感じの」物語には、一切興味がない。そういうものがあることは全く否定しないし、必要とされていることも理解するけれど、自分の作るものではないと思う。今、目の前に座っている観客が、それまでに観た事のない物語を産み出したいとずっと思っている。それは上手くいくことも、大失敗することもあるだろう。ただ一つだけ自信を持って言えることは、観客を舐めることだけは絶対にしない、それだけだ。・・・自信過剰だと思われますか?どうですか?たぶん、過剰なのでしょう。

■雑誌でだったか、ブログか何かでだったかちょっと記憶が曖昧なのだけれど、以前読んだ枡野浩一さんの文章で、次のような内容のものがあった。

『森達也監督の、オウム真理教を扱ったドキュメンタリー映画「A」で、終盤にかかる音楽が感動的すぎて「誤解」されるんじゃないか?と、何人かの人たちが言っていた。その人たちは、自分は「誤解」しないくせに、他の「誤解するかもしれない」人の心配をしている。まったく余計なお世話』

極めて示唆的なエピソードである。「誤解」の可能性から、何故か自分だけを、初めっから無条件で棚にあげているのである。自分に限っては誤読などするハズがない、と根拠もなく信じている。「俺には分かるけど、果たしてみんなには分かるかねえ」と言うときの、その「分かる」の根拠とは何か?「みんな」とは誰か?常に自明のものとしてしか存在しない世界では、「分からないもの」はどう処理されるのだろう。それは「必要がないもの」として視界から消えてゆくのだろうか。その不必要とされ、捨て去られたものだけで、いつか一つの芝居が作れないものだろうか。そんなことを、考えてしまう。

■日々、わからないことだらけである。例えば先ほど郵便局へ行ってきたのだけど、その前にベンチがあり、二人のオバさんが座って大福を食べていた。すると唐突に一方が言ったものである。

『この大福、いいわ。根性の座ったアンコだ』

・・・えー・・・。「根性の座った」って・・・アンコを形容する際の常套的な表現なのでしょうか・・・。それともこのオバさん独自の表現なのでしょうか。難解。と同時に、何となくドッシリと甘えのない(いや、甘いんですが)風格漂う本格派アンコの趣が言い当てられているようでもあり。日々、勉強である。

■さて、ツイッターの影響なのか何か見えない力が働いているのか定かでないのですが、最近はこのブログに来て下さる人がもりもり増えておりまして有難いことです。約一年ぶりに架空畳のサイトも更新されました。前回公演の記録と、そして次回公演の予告をチラリとですが。夢にまで出てうなされた、大きな劇場での公演です。詳細はこれからですが、えっちらおっちら這うようにして進んではおります。まだまだ、這い回ります。是非、ご期待下さい。

小野寺邦彦