#075 こころにもないことを 2011.02.27.SUN


■昼間、テレビをつけていたらTBSの番組で「昨年大ブレイクを果たした、知る人ぞ知る旬の人」というコトバが出てきてのけぞった。いろいろ矛盾していてたいそう面白いコトバである。脳みそを通していたら到底思い付けないセリフだ。考えた人は天才か、大馬鹿者であろう。俺は大馬鹿者が好きである。紹介された旬の人、私は微塵も知らなかったけど。

■その人とは違うのだけれど、今「大ブレイクを果たした、知る人ぞ知る旬の人」と言えばこれはもう西村健太だろう。大人気だ。面白いものなぁ。むちゃくちゃ面白い。小説も、本人も。どっちかといえば本人の方が面白いけど。よく中上健二に例えられるが(本人も相当意識していると思われるが)、中上の小説だって、特に初期の作品は、笑えるしおかしいのだ。そしてやっぱり中上本人のほうが面白いヒトであった。愛されキャラっていうのか。マスコット的な存在。本人は不本意かもしれないのだけども。西村健太、私が最初に読んだのは大学2年生の頃で『どうで死ぬ身の一踊り』、一番好きなのは『春は青いバスに乗って』である。杉江松恋さんも書いているが、作中、ケンカして警官に取り押さえられた際の貫多のセリフ

「痛い、痛いっ、離して! ぼくは被害者の方なんだっ」

これはもう壁に貼っておきたいくらい素晴らしい。この一行で2時間くらい笑っていた。本を読んでいて、おまけに純文学で、あれほど笑ったことはなかった。最高だ。

■ところで先週終わった五反田団の新作は傑作だった。今まで観た中で個人的にベストの作品であった。千秋楽を待って感想を書こうと思ったが、粗筋とかセリフとか、あんまりマトモに書いても意味が無いように思われたので、印象感想である。ぼんやりとした感じでお読み下さい。

■こころにもないことをいう、というコトバがあるが、これは論理矛盾している。心にないことを喋ることは出来ない。敢えて言うのなら「心にもないことを心で思ってから喋る」ということか。それはつまりウソってことなのだけど、ウソだってこころの中にあるハズだ。ここで使われる「こころ」とは本心、やや飛躍すれば誠意、みたいな意味なのだろうと思う。「こころ」の本質を、「真実」である、と定義している。だけどね。面倒臭いこと言って申し訳ないけど、ウソだって真実なのである。ウソ言おうと思ったのなら、それも「こころ」の真実。ウソのこと思ったのにそれ言うのヤメて本当のこと言ったら、それだってウソになるでしょう(ああ鬱陶しい)。結論として、こころにもないことを喋ることは出来ない、のである。

■ということを踏まえた上で舌の根も乾かないうちに残酷な事実を告げると、実際に「こころにもないこと」を喋る人間は実在する。俳優と呼ばれる人々がそうである。彼らは舞台の上で、ずっと「こころにもないこと」を喋っている。そのコトバは作家、即ち他人の書いたもので要するに全部借り物である。そのセリフをまずは覚えて、暗記して、それから「気持ち」を入れていく。まずハードが先にあり、そこにソフトを入れ込んでゆく、この作業を通常、稽古と呼ぶわけである。何度も何度も繰り返し暗唱して、そのセリフを、まるで自分の考えで喋っているかのように馴染ませてゆく。もっと言えば騙していく。自分を騙す。セルフ・マインドコントロールである。だからこの方法論は正しい意味でまったく宗教に同じである。で、あれば当然予想が付くように、そのコトバは最終的に何か「立派なこと」を示していてくれなくては困る。今自分が無理やりに「自分の考えなんだ」と思い込もうとしている「他人の考え」が何の意味もなく超くっだらない、例えば「おならプープー」とか「カブト虫ってどんな味すんだろ」とか、そんなことを指し示すためだけのモノであったとしたらどうだ。無理だ。普通は無理である。

■で、五反田団『俺のお尻からやさしい音楽』だ。作家が書いた「こころにもない」コトバを、演者が「こころにもないまま」発しているのが良かった。与えられたウソを、ウソのまま喋る、というのはこれは考えてみれば凄い技術であるし、そのような演出のプランを前提とした戯曲の構造も見事である。見事だし、ヒネていて面白いのだ。芝居はみな、ウソっぱちだが現実だってそうなんだから、これは大層「リアルな」芝居であった。大変に構造的で、野心的な作品と受け取った。宣伝の文句には

壊れそうなほど美しい少年大山はプロのバイオリニストを目指しフランス音楽学院に留学する。そこに待っていたのは、世界中から集まった音楽エリートや、厳しい先生たちだった。
という前提のもとかなり何も考えない調子で描かれた感動の学園ロマン。
見終わったあと、心に残るのは愛か、それとも無か。無だ!
確かに私も悪ふざけが過ぎると思う、しかし、人生ときにはそういうことも必要ではないだろうか。どうぞ宜しくお願いします。 前田司郎


と、あるのだが、この文章もそうとう意地が悪い。実はテーマも主張も満載の芝居で、でもそれを「こころにもないまま喋る」という演出プラン一発で、ここまで「無意味」にしてみせた手腕は憎らしいほど鮮やかである。「あまりのくだらなさ」に怒って帰った人もいるとのことだが、私は帰らない。五反田団の行くところ、どこへでも行く。まあ、五反田なんだけど。なんて便利な山手線。重大な決意もリスクなく表明できる。これが「淡路島団」だとか「ケンブリッジ団」だったら一月は悩むところだ。

■まだ若い、20代後半くらいの母親と、その子供が公園などで二人きりで遊んでいる光景を見ると、それは古い過去の風景のように見える。過去として語られるための風景を、あらかじめ、今、作っている。そんな風に思えてしまうのだ。それを「思いでつくり」と呼ぶのだろう。幸福で、哀しい気分に、フとなってしまう。

■またいろいろと普通のことを書いた。普通のことを考える、普通の日々である。

小野寺邦彦