#073 自称アイドル 2011.02.20.SUN


■月曜はバレンタイン・デーだったとかで、さるお菓子会社のキャンペーンに「応募当選者にアイドルから本命チョコが届く」とあったが、それは違うだろう。抽選で相手を決めるのだから、むしろこれ以上はない鉄壁の「義理」だと云うべきだ。義理チョコの最高峰、とかそういうコピーなら私も欲しい。姉妹品の人情チョコは人肌でしっとりと溶けている。

■それにしても何だか「アイドル」が流行っているのかも知れない。単体ではなく集団、グループ単位での「アイドル」である。ワンアンドオンリーの絶対的ヒロインではなく、豊富に用意された粒揃いの中から好きなのを選んで、という相対的なヒロインという形は時代に合っているのだろう。民主的である。アイドルが民主的ってのも(語彙的に)どうなんだと思うが、それ自体に別に意見は無いのである。結構なことなのである。あるのだが、電車の吊り広告や雑誌の広告、ビルの看板などに無尽に踊る「アイドルグループ」や「アイドル集団」などというコトバに、けれど私は全く興味が沸かないのだった。しかしである。仮にそれを「アイドル軍団」としてみればどうか。俄然興味が沸いてきた。だって軍団だ。軍だぜ、軍。如何わしきは軍の響きだ。何だかプロレス的なニュアンスを感じる、アイドル軍団。クセ者揃いだ、アイドル軍団。悪魔超人と戦ったのはアイドル超人軍だったし。他団体との抗争や遺恨、メンバーの造反や内通、移籍などでファンは盛り上がる。そして最終戦は東京ドームで決戦だ!ダフ屋もホクホクである。

■これも何度か書いたり言ったりしてきたのだけど、たかが芝居やる集まりを「劇団」というのもなんかスゴイ。団かぁ。じゃあ俺は団長か。書記とか補佐官とかいるのか。いっそそれこそ「演劇軍団」ではどうか。何かヨソの芝居に殴りこんでいって劇場の領土制圧とかしそうである。他の劇団を力で屈服させ、吸収・支配するファッショな冬の時代が訪れるのだ。やがて内ゲバが起こり、演出家は罷免され、主演女優を巡る醜いいさかいから組織は瓦解してゆく。あれ、何か普通だ。日常茶飯の出来事だ、ソレは。

■「劇団」というコトバのモノモノしさと、それを名乗る際の何とも言いようの無い気恥ずかしさ。「劇団」の他に「演劇集団」とか、「なんとかユニット」とかそういったいう呼称を使っている例もまあ世には多いですけれど、同じことである。気恥ずかしい。いたたまれない。そもそもそれらの呼称は一体なにかと言えば、そう、名刺の肩書きのようなモノですね。ただ「架空畳」とか言ってみたところで「何ですか、それは?」と聞かれること120パーセント必至なので「まあ、劇団です。芝居をやります」と言わねばならない、この一連の遣り取りを省略するために予め名乗っておくわけです。でもねえ。実際に「劇団」とかいうのは本当、気恥ずかしい。それは何でかというと、その肩書きは所詮「自称」であるからです。

■例えば「西部ライオンズ」や「鹿島アントラーズ」を「球団・西部ライオンズ」「球団・鹿島アントラーズ」とかいいますか。言わないでしょう。それはもう、ライオンズは野球チームだし、アントラーズはサッカーチームだし、ということは当然の事実として世間的に認知されている、と。まあそういうことになっているからである。つまり「劇団」とか「演劇集団」などの肩書きや説明が名前の頭に必要だということは、それだけ認知されていない・マイナーな存在だということの証なワケで、もっと言えばアマチュア、シロートなのである。その、「認知されていないので自称しなくてならない」というところに気恥ずかしさの正体がある。

■そもそも小劇場で芝居なんぞやっていて、一体どこからプロでどこまでアマチュアなのかというのは極めて怪しげで、強いて言えば粗方はアマチュアなのである。インディペンデントから始まって、ごく一部の人がいつの間にか何とな~くプロになる。とは言え実態としてはまあほとんどの人間はアマチュアだ。そこで肩書きは必然的に自称されることになる。自称・劇作家。自称・演出家。自称・俳優、女優といった人々が日々大量に生産されてゆく。或いはアーティスト、ハイパーメディアクリエイターとかそういうのと大差ない(いや、その肩書きの人は立派なプロフェッショナルなのですけども)。まあ何と名乗っても自由だし言った者勝ちなのだけど、例えば1,2回劇場借りて芝居やったくらいで「劇作家」や「演出家」、「俳優」を名乗るニンゲンというのが案外いたりして、その場から逃げ出したくなったこと一度や二度ではないのだ。

■何にしても肩書きを自称する、という行為は気恥ずかしいモノです。もうちょっとサラリとそれを伝えることは出来まいか?会社の社名の前に(株)とか(有)とか付いているように、(劇)架空畳とか、そういうのはどうか。そういえば昔(鳥のマーク)というのがあったけど(よく分からない人はググってみて下さい)。

■とか何とかグチャグチャ言っていると、そこまで他人は考えて聞いてないよ、自意識過剰だよ、とまあそんなことを言われたりもするが、過剰な自意識を持ち合わせていない人間が芝居なんぞ作るか。それと誤解してはならないのだが、私はその「恥ずかしさ」を決して悪いものだとは思わない。むしろモノを作る人間は常に「恥ずかしく」あるべきだ、とすら考える。どこまでも「自称」せざるを得ない恥ずかしさ、いたたまれなさ。私はそれを忘たくはない。恥をかきながら続けている。作品を作っているなどと言って晴れがましいような顔は決してすまいと思う。好きでやっていることだ。「作品に対する使命感」とか言う奴がいるが、首を絞めてやろうかと思う。フロント・チョークで。

■しかしそれにしてもバンドは不思議ですね。インディーズシーンというものの実態は小劇団と大差あるまいに、「楽団・ほにゃらら」とか言わない。そこら辺がセンスの差なのだろうな。単純に関わる人間の数の問題なのかも知れないけれど。しかしバンドマンと劇団員、その呼び名の醸し出すイメージの差。何といってもバンドマンだ。マンである。これが「楽団員」だったらどうだ。どうだと言われても困るが。少なくとももうちょっとモテてはいないハズである。楽団員。

■先週の日曜、友人の結婚式で神戸まで出かけた。朝5時に家を出て新幹線に乗り、夜行バスで帰ってくる。日帰りの強行軍だったが、楽しかった。フと夜行バスに飛び乗ってしまえばどこにだって行ける。朝には別の街にいることが出来る。その一瞬の夢想が、同じ街・同じ部屋での、何も起こらない毎日の生活を支えているのかもしれない。そう思った。

小野寺邦彦