#072 無知との遭遇 2011.02.13.SUN


■最近頭を悩ませていることは「マズい納豆のおいしさ」をどう表現したらよいのか、ということである。本当にどう言ったらいいのだ。このマズさが美味い、と感じる食べ物があるでしょう。(ないですか?)。味の好みと言ってしまえばまあそれまでなのかもしれないが、そういう次元を遥かに超えて、明らかにマズいのにウマいのだ。もっと言えば「ウマい納豆よりもマズい納豆の方がウマい」のだ。魚肉ソーセージなんかもそうである。イケメン苦手ブサイク好き、みたいなことか。違うか。

■少し前。ある人と話をしていると、「子供の発想は独創的で面白い」などと言ったので、私は「それは違う」と思った。思ったが口には出さなかったのでここに書いておく。

■殆どの場合それは大人にとって珍しいというだけで、子供の世界では常識的で凡庸な発想に過ぎないのではないか。それはあくまで「子供が言った」から面白いのであり、同じことを大人が言えばバカにされるに決まっている。つまり意見だけを純粋に取り出してみれば取るに足らないことであるのだから、一体どこに感動しているのかといえば、その無知ぶりになのである。だが子供は無知を誇っているわけではないのだから、ある意味子供を見下した考えである。子供の考えとは、やはり子供の考えに過ぎない。私には、子供の思いつきよりも、大人の考えの方が断然面白いと思うし、興味がある。

■確かに子供の発言にハッとすることはある。しかしそれは発言の打算の無さ、ウラを感じない純粋さ、すなわち彼・彼女らの「態度」に寄るものであって、意見や発想そのものにではない。「子供の発想は凄い」「常識に囚われていない」などと、コドモのつまらん戯言を徒に礼賛する風潮には辟易とする。それは未熟であるということに過ぎない。常識を知らないことと、常識を知った上でそこから離れてゆくことの、どちらが困難で、また魅力的か、指摘するまでもないことだ。いやまあ「常識に囚われない」というコトバ自体が物凄く常識的なんだけど。そんなこと言っても奴らにはチンプンカンプンなのだろうし、まあそれはいいや。

■もう一点。これは高校を卒業した辺りから何となく感じていたのだが、どうも若い人間(まあつまりコドモ)の方が頑なで、保守的になり易いように思える。一般的に、若者は失うものが何もないので、無謀だ、挑戦的だと言われるが、事実は逆なのではないか。失うものがないからこそ、何か守るものを探している。ある一つの場所に固執して「そこにいる」ことを主体的に選択しようとしている。実際には若者ほど「囚われ易い」のだ。子供ほど、意固地で頑固なものである。それは彼らが持っている世界の圧倒的な狭さに呼応している。私自身、幼い頃から自分が-意に反して-案外に保守的で頑固な性格であることを自覚していた。最近は、それを少し窮屈で退屈だと感じている。

■例えば、小劇場の界隈でうんざりする程溢れかえっている、いわゆる「若さを売りにした芝居」というやつは、今は見るのもイヤである。それはつまり私にとっては「無知で頑固で狭い芝居」であるからだ。ただ勿論、未熟な魅力、というものも世の中にはあるし、私はそれを否定するものではない。若さ以外に一つでも売りがあると言うのなら、勇んで観に行く。

■まあつまり何が言いたいかといえば、コドモよりオトナの方が断然面白い、ということだ。子供のヒトは早く大人になってどんどん面白くなって下されば結構である。

■扁桃腺が腫れてしまってあまり声が出せない。だが人に言わせれば今くらいで普通だそうだ。普段どれだけ喋っているのだろう。体調もあまりよくない気がしてくる。一日中黙っていると何だか調子が出ないのだ。喋りたい。若しくはどうせ喋れないのなら、喋ってはいけない場所に居たいと思ってしまう。映画館とか。新宿へ「冷たい熱帯魚」を観に行きたい。雪が溶けたら出掛けよう。

小野寺邦彦