#070 客席にて 2011.02.03.THU


■新橋にある、油とヤニでベットリと薄汚れてコ汚い居酒屋のメニューに力強い文字で「カフェ飯丼」と書き殴ってあった。アタマの沸いた妖精の書いたイタズラだと思った。

■先月から今週までに7本ほど芝居を観た。全て出演者・関係者に誘われてのものだったが面白いものは無かった。既に自分たちの掌中にあるものを繰り返して見せているだけで、挑戦的なもの、挑発的なものを一切感じなかった。あるいは過去あったものの単純なエピゴーネンであり、模倣に過ぎないものである。「それ、見たことあるよ。しかももっと面白いやつ」。感想を書けばそうなる。

■小劇場の芝居は、小さな客席に向けて行われるので、自然、規定路線で受けるモノ・過去に受けたモノを再生産しがちになる。身内受けや小ネタで客席が沸けば沸くほど一見の観客としてはシラけてしまうし、何よりそのチラチラと客席に媚を売る視線が嫌である。空振りかホームランかのフルスイングよりもコツンと狙ったヒットを生産しようという根性が下衆である。それでは劇場まで足を運ぶ甲斐が無い。その程度の「面白いもの」はテレビやネットにタダでいくらでも転がっているからだ。シロート芝居に金を払って通うのは、何かとてつもないモノ、埒外のモノを見たいと思うからだ。

■一見、挑戦的な意匠を身にまとってはいるように見せてはいるが、その実、薬籠中のものを多少アレンジしているに過ぎないというものも多い。非常に多いのだ。ハッキリ言って客を舐めているのである。馬鹿にしているのである。この程度でいいだろう、と。子供は騙せるかもしれない。しかし、私は騙されない。何より「自分たちが楽しんでいれば、観客も楽しんでくれるはず」というムードが漂ってきて辟易とする。戯言である。それは金を取ってすることではないだろう。共感を求めるばかりで知的な興奮が味わえない。知らないもの、観たことがないものが一切出てこない舞台には価値を感じないし、むしろ時間の浪費である。逆に言えば、例え全体が凡庸、あるいは破綻していたとしても、ただ一つのセリフ、ただ一つのシーン、ただ一つのギャグ、たった一人の役者に見るべきもの、見たことがないものが有れば、それだけで許せる・観てよかったと思う。その瞬間のためだけに、劇場へと足を運んでいる。

■ハッキリ言って芝居の客は甘い。他のジャンル、例えば映画や音楽や文学の客などと比べるとハッキリと甘い。それはそうだろう。知り合いや業界関係者でギッシリと埋め尽くされた客席から簡単に出てくる「良かった」「面白かった」の声。どの芝居を観にいっても、必ず数人は知った顔がいる。どこでも見かける顔がある。それが小劇場という場をつまらなくする。小さなファンを楽しませるサークルと化してゆく。一般の観客の足はますます遠のいてゆく。

■勿論、全て自分自身に跳ね返ってくることである。というより、ほとんど自分のこととして書いた。他山の石としたい。

■芝居を観た後、久しぶりに岩松と飲んでダラダラと喋った。

■帰りの電車の中で高校生のカップルを見かけた。肩まで伸びた長髪の男の子と、ベリーショートの女の子だった。男の子は身長180センチくらい、女の子は150センチくらいで対照的なルックスだったが、二人とも真っ直ぐで美しい鼻をしていた。一瞬、兄妹なのかもしれないと思った。ぎゅっと寄り添うように立っていたが、手は握っていなかった。

小野寺邦彦