#069 旅する缶コーヒー 2011.01.28.FRI


■書店で雑誌を立ち読みしていると、隣に5,6人の女子高校生の集団がやってきて、一冊の雑誌を回し読みし始めた。「マジで」「ウソウソ!」「ありえねえって!」「妄想、もうそう!!」キャッキャキャッキャと大変に姦しく、ページを繰るたびに大騒ぎである。それでも5分ほどもすると「くだらね~ww」と雑誌を投げ置き、嵐のように去っていった。ポンと放り出されたその雑誌を、何となく棚に戻そうと手に取れば、その表紙には蛍光色のドでかい文字組みで「モテガール完全マニュアル バレンタイン必勝法!!」とある。

■その後10分程も経っただろうか。立ち読みを切り上げた私が棚を離れて店の入り口へ向かうと、入れ違いで先ほどの女子の一人が入って来た。オヤ、と思って彼女を目で追うと、まっすぐに件の棚へ向かい先ほどの雑誌を掴んでレジへ。サッと会計を済ませてカバンに押し込むと、足早に出て行ったのだった。風の如く一分の無駄も無い動き、その間約20秒の出来事である。

■感服すると同時に、しかし私には妙な既視感があった。風のようなあの挙動、俯きがちのあの表情。いつかどこかで見た風景ではないか。それも恐らくは、とても身近に・・・。そこでハタと思い至ったのである。そうだ、アレは男子がエロ本を買ってゆく姿と寸分違わず同じものではあるまいか。ああ、そうか。そうだったんだね・・・。何だか奇妙にも爽やかな感動を覚え、胸がいっぱいになったものである。

■日中はだいぶ日が差すようになった。とはいえ、外へ出ればまだまだ寒い毎日。電車の待ち時間やちょっとした合間に飲む缶コーヒーの摂取量がついつい多くなってしまう。ポケットに片手を突っ込み小銭をまさぐりながら、自販機に向き合ってフと気づくことは、コーヒー以外のほぼ全てがペットボトル飲料であることだ。今や「缶」は確実に減少の一途を辿っているのだろう。エコや資源回収の問題などもある。やがて飲料類の全ての容器がペットボトルになることも自明のように思われる。でもなあ。やっぱりコーヒーは「缶」だよ。缶コーヒー。仮にペットボトルに熱々のコーヒーを詰めてみるがいい。ペットコーヒー。飲みたくない。断じて飲みたくないぜ、ペットコーヒー。間抜けな響きだ、ペットコーヒー。

■・・・などと思うと同時に、しかし例えば実際に全てのコーヒーが「ペット入り」になり、初めはブウブウと文句を言う者が少なからずいたとしても、数年も経ちその形態が浸透してしまえば、ごく自然にそれを受け容れるようになるのだろうとも思うのだ。思い返してみれば昔は自販機で売られているジュースだって「缶ジュース」と言ったのだ。言ったでしょう?事実、缶に入っていたのだから。だが今聞くその言葉、「缶ジュース」って何だか「死語」と感じられるじゃないか。コーヒーだってペットだぜ、という時代が来たって何ら不思議はない。ないどころか、

「やはりコーヒーはペットさ」
「ペットに入っていてこそのコーヒーさ」


そんなことを囁く者さえ出てこないとも限らない。いたら殴ってやるが。けれど今の我々にしたって、19世紀のニューヨーカーから見れば「缶に詰めたコーヒーを飲むなんて!」とヒンシュクを買うこと必至であろう。「正気かい、ミスター?考えてもみなよ。だってそれ、缶だぜ、缶!」。

■コンビニや自販機でお茶や水が売り始められた当時、小学生だった私は、誰がそんなものを買うのかと思った。それが今やこの2種が、全ての飲料水の中での売り上げトップ2なのだ。きっとそのうち空気だって買うようになる。そのとき、コトバはどうなっているだろう。小説、映画、テレビ、演劇。空気をも買うようになった時代に、コトバに支払うカネが果たして残るものだろうか。餓死する直前に食べ物ではなく、コトバにカネを使う人間がいるものか。例えいたとしてそれは、コーヒーはペットボトルではなく缶で飲みたい、という程度の意地に過ぎないのかもしれない。淘汰されれば「昔はそうだった」という程度のハナシなのかもしれない。コトバにカネを払った時代もあった。ではその歴史はまた、どのようなコトバで語られるのか。

■何のハナシか分からなくなってしまった。

■夜中、ビデオをつけっ放しにしながら読書をする。1972年の映画「殺人者にラブソングを」。たまに思い出したようにチラリと画面を見れば、44マグナムを構えるロバート・カルプの顔。「ダーティーハリー」イーストウッドにも決して負けてはいない。

小野寺邦彦