#062 10月のこと(その③) 2010.11.22.MON
■10月27日夜、新宿FACEにて「新宿八犬伝 第五巻 犬街の夜」観劇。会場は勿論、新宿歌舞伎町のド真ん中。巨大なグランド・キャバレーの跡地。普段はプロレスとかの格闘技系の興行が行われているような場所らしい。血なまぐさい雰囲気が作品にもマッチしていた。
■新宿八犬伝の完結編。まさか第三エロチカの、しかも新宿八犬伝の新作を劇場で観ることの出来る日が来ようとは。感無量である。あとはブリキの自発団さえ公演してくれれば、私が十代の頃、観たくて堪らなかった劇団の公演はほぼ全て観たことになるのだが。まあ、無理だろうなあ。きっとブリキは無理だ。
■芝居の方は、荒唐無稽とはまさにこのこと。雑多なエピソードがバラバラと未整理のまま、ナンでしょう、作家の生理的なテンポとでもいうのか、独特のテンポで疾走する。緩急というものが無く、突っ走りっ放しのテンション、大きな物語の枠組みをチラリと見せるハッタリ感、チープな肩透かしギャグ。絶叫系の見栄きり芝居。この感じ、まさに80年代演劇的で、作・演出の川村は、かつての自分の作風をパロディーとして自覚的に使いこなして余裕しゃくしゃく、これに成功している。
■そもそもパロディーという技法自体が極めて80年代的だ。芝居の冒頭、棺桶を引きずりながら真っ赤な夕日を背負って登場する主人公のその名も「新宿ジャンゴ」。この幕開きからして「夕日のガンマン」のパロディーなわけです。ジャンゴの経営する探偵事務所の名前は「よろずマカロニ相談所」だし。まずイマの観客にはビタ一文伝わるまい。それを承知で持ってくる。この新宿ジャンゴが、第一巻の主人公、フィリップ・マーロウに対照させられているのは明らかで、そもそもこの第五巻自体が、第一巻へのセルフパロディー、或いはアンサーとして書かれているんですね(このことには後でまた触れます)。劇団30周年解散公演として、まずは鉄板の構え。80年代生まれのくせに80年代演劇のファンであった私にとって、かつて観たかった芝居が全てここにあった、というくらい楽しんだ舞台だった。面白かった。
■で、内容となると、上記のように大小のエピソードが並列で語られてハナシは混乱を極めるわけですが、以下、登場人物の『姫川マキ』と『闇だまり光』のエピソードを主にピックアップしながら大雑把に交通整理をしてみます。あ、いわゆるネタバレというやつです。公演は終わっていますが、戯曲も出版されているので未読の方はご注意下さいませ。
■新宿で「よろずマカロニ相談所」を経営する新宿ジャンゴの元に盲目の姫川マキが依頼にやって来る。逃げ出してしまった自分の盲導犬を探し出して欲しい、と。盲導犬の名はカルマ。一方で、街には謎の男・「世騒ぎの使徒」闇だまり光が現れて、大暴れ。保健所員を殺害し、殺処分予定だった犬を街に解き放つ。警察はこれを追い、街は騒然。さらにはかつて新宿を救ったという、八犬士の噂を取材する東スポ記者の滝沢という女性が手がかりを求めてジャンゴを追う。その取材の過程で爆破事件が起き、かつてのグランド・キャバレー「バルト」の横っ腹に大穴が開く。警察は闇だまり光と共に、この事件も同時に追う。
■ジャンゴは捜査の過程で、姫川マキの探している盲導犬カルマとは、彼女の弟である闇だまり光であることを知る。光はかつて同級生相手に傷害事件を起し、少年院から帰ってきて以来、姉であるマキの目として飼われていた。光は「自分は犬だ」という妄想に取り付かれ、失踪した『恋人』リリ(昔飼っていた犬の名前)から届いた手紙を手がかりに、街に出てきたのだ。
■普通の人間には見えない八犬士のリーダー犬山涼が現れて、姫川マキや闇だまり光、ジャンゴの他に、売れないホストや勃起不全のAV男優、キャバ嬢やヤクザ、ホームレスなど、健全でクリーンになってしまった新宿で、居所を無くし「犬」としての生活を余儀なくされている人々を理想郷「犬街」へと誘う。「犬街」への入口は「バルト」に空いた大穴。登場人物たちは全員「犬街」へ。といったところで一幕が終わり。
■犬街とは、かつての古きよき新宿、それぞれの時代の良いところを再現してごっちゃにした、ある種の理想郷であった。但しそこでは「犬」と「人間」の立場がひっくり返っており、「犬」たちは「人間」を捕獲し、ペットショップで売りさばき、残虐な拷問で迫害を行っている。ちょうど表の新宿で「犬」として扱われていた人々が、犬街ではその人々を迫害しているわけである。犬街とは、「犬」たちの理想郷だったのだ。登場人物たちは、犬街で次々と「八犬士」として覚醒し、人間を狩り出してゆくが、唯一人、闇だまり光だけは(その意思がありながら)八犬士として覚醒することが出来ない。また人間であるジャンゴや滝沢も捕縛され、処分されそうになるが、止めていた酒を呑まされたジャンゴ、アル中が復活し豹変、「納得のいかねぇ人生だぜ。やってられっかよおお!」と流石「夕日のガンマン」、マシンガンを乱れ撃ち(格好良い!)窮地を脱して元の新宿へと帰ってくる。
■ところが戻ってきた現実の新宿もまた「犬街」と化していた。ジャンゴたちが犬街へ行って帰ってくるまでの一月を利用して、八犬士のリーダー、犬山涼はクーデターを敢行、新宿を制圧していた。そして事件の真相が次々と明らかになってゆく。姫川マキの母は、昔ジャンゴが所属した過激派セクトの工作員ヤミヤミだった。彼女は爆弾で新宿中の交番を爆破する計画を立てていたが、直前になってジャンゴ(ゴミゴミ)は恐くなり、組織から逃げ出した。ヤミヤミはジャンゴを「ゴミ」と罵った。その後、製造中の爆弾が誤爆し、ヤミヤミは死亡。傍らにいた五歳の姫川マキも失明した。
■それから25年が経ち、ある日、姫川マキは雑踏の中で八犬士のリーダー・犬山涼と出会う。盲目の彼女の目に、人には見えない犬山涼の姿だけが見えたのだ。犬山涼は姫川マキに言う。「盲導犬を街に放て、さすれば犬街への道が開かれる」と。指示に従って弟の闇だまり光を街に放すと、期待通り、彼は騒ぎを起し、街は混沌とする。さらにはバルトの爆破も、母親から爆弾作りを引き継いだ姫川マキの仕業であった。それらの「世騒ぎ」に乗じて犬山涼はクーデターを決行し、「人間」に対する「犬」の下克上が成る。しかし犬の天下もつかの間、犬街新宿は軍隊に空爆され、八犬士たちは戦うが、何故か第一巻で見せたような超能力(高層ビルより大きくなって戦う!)を発揮できず、無残に死んでゆく。あっという間に鎮圧された新宿は、また元の静けさを取り戻す。
■ほとぼりが冷め、ジャンゴの事務所に滝沢と姫川マキ、そして彼女の盲導犬に戻った闇だまり光が現れる。滝沢は東スポの記者ではなく、姫川マキを取材に来たライターで、今回の物語の全ては姫川マキが語る「物語」を滝沢が筆記することで引き起こされた「彼女の物語」であったことが語られる。姫川マキこそ八犬士の産みの親、伏姫だったのだ。滝沢とは恐らく滝沢馬琴の末裔であり、そもそも「南総里見八犬伝」は盲目となった晩年の馬琴が娘に口述筆記させて作られた物語であった事実になぞらえられる。事の顛末を語り終え、一同がジャンゴの事務所を去ろうとする瞬間、張り込みの刑事が現れて闇だまり光は捕らえられえてしまう。狭いところに閉じ込められるのはもう嫌だ、と暴れる光。「犬が犬を殺しただけだ」と弁明する彼に、刑事が言う。「お前は人間だ。人間だから、人間を殺すことができたんだ」。
■光は捕らえられるくらいならば、とビルから身を投げて自殺。その瞬間、八犬士に迎え入れられて「犬」として転生する。「姉さん、ぼく、犬になれたよ」・・・。とまあ、そんな感じのオハナシです。細かいところはいろいろ記憶違いもあるかと思いますので、戯曲を読んで改めて修正するところは修正するつもりです。いや、大変なんだよ、あの上演を一回観たこっきりで、これだけのストリーラインを整理するのは。まあ、それはいい。以下、ちょっと感想を書きます。
■正直、私はシリーズの第一巻、二巻を過去に戯曲で読んで、あまり面白いとは思わなかった。(三巻、四巻は面白く読んだ)。これも80年代のハヤリと言ってしまえばそれまでなのだけど、登場人物が「メタ構造」や「物語論」を作中でおおっぴらに口にし過ぎるのですね。物語の途中で人物たちが「これは作者が書いたものだ」とか「俺は作者の作った登場人物なんだ」とか言い出してしまう。前半は「新宿八犬伝」という物語を普通に展開していたのが、途中でこの物語自体が作られたものだと言い出し、後半は作者である『影の滝沢馬琴』の書いた筋書きから登場人物たちが逃れるための戦いになってゆく。如何にも脱構築・脱物語・反ドラマが声高に叫ばれた時代の物語だなあ、とは思うのだが、正直なんじゃそりゃ、と一気にシラけてしまいましたね。そもそもやたら物語、物語と言うけれど、その論考がナマのままセリフとして語られているだけで、物語の構造にまで落としこめていない。さらにはそれらの論考が実に凡庸・平凡で浅く、つまらない。論旨そのものに特に見るべき点がないのだ。これより前に書かれた「ニッポンウォーズ」のほうが断然それらの論考を「物語」として構造の中に落としこめているし、その当時としては先進的な内容だったと思う。(全ての行動・感情・記憶がプログラミングで出来ている軍事用アンドロイドが、自らの意思を持って造反を企てるが、それすらもプログラムの一つだった、という筋書き)。しかし川村はこの作で岸田戯曲賞を取る。26歳の若さである。
■以来『新宿八犬伝』のシリーズは、新宿歌舞伎町を舞台にした荒唐無稽な大活劇物語と、その物語を操る作者『影の滝沢馬琴』に抗う登場人物の八犬士たち、というメタ構造を基本のフォーマットに敷き、展開されることになる。第一巻では深夜の風俗営業が禁止(風営法の改正)された新宿歌舞伎町の夜、第二巻は冷戦末期とベルリンの壁、第三巻はバブル経済の終焉と次代への茫洋たる不安、第四巻は都庁移転と副都心の誕生、それに伴うナショナリズム台頭の予感などが物語の背景にある。一見して分るように時代の絶頂期というよりは、その衰退期・終焉期に劇作家のインスピレーションが働くようだ。時代が勢いを失い、つまらなくなってしまう瞬間に現れる八犬士たちは、事件を起して世の中を掻き回し、世間に再び混乱と活気をもたらす役を担わされる。しかしそれすら作者・影の滝沢馬琴が伏姫を利用してコントロールしている事実に気付き、反乱を企てる。すなわち社会と物語を同等の「制度」と捉え、そこからの脱出願望を描いたものがこのシリーズだといえる。
■では第五巻はどうだったか。まず、物語を操る伏姫・姫川マキと影の滝沢馬琴である東スポ記者の滝沢があまり大々的に表に立たず、特に滝沢がストーリーの奥に引っ込んでいたのが良かった。第一巻に比べて物語に対する論考はグっと控えられているし、その論旨も、現代の滝沢馬琴を(自称)東スポ記者、としたことで「書けば書くほど真実が嘘になっていく」「どんなハナシも胡散臭く脚色されてゆく」という点に集約され、面白いところを見せた。さらに第一巻では言葉だけで語られて今イチピンとこなかった「物語からはぐれた登場人物たち」という概念も、ストーリーの中心にいながら、物語の構造からは常に仲間はずれを食う闇だまり光というキャラクターに落とし込められていて見事だった。(望みながら八犬士として覚醒できない、荒唐無稽な物語の中にあってただ一人、一般の殺人者として逮捕という現実的な罰を負う、など)。何よりテーマの大きさに対して芝居全体のトーンが極めて軽妙だ。そう、軽妙。それまでのシリーズに比べて軽さと余裕があるんだ、第五巻には。そこにこそ劇作家・川村の25年間の集積を見る。物語、物語、と口から泡を飛ばして登場人物に語らせずとも、物語論は物語そのもので十全に語れる、という自負が伺える。何より抜群に面白い物語だった。第一巻から25年。自身の物語論に対する落とし前を、見事につけて見せた。
■役者では闇だまり光役の手塚とおるが頭抜けて圧倒的な存在感で、ゾクゾクするような素晴らしい演技を見せた。新宿ジャンゴ役の小林勝也も重厚なんだか、浅薄なんだかようわからん食えない親父ぶりを魅力的に演じていて楽しい。犬山涼役の丸山厚人も良かった。勿論有薗芳記、笠木誠の往年の第三エロチカ主要メンバー登場も嬉しい。日替わりゲスト出演の役「暗がりママ」は、故・深浦加奈子さんに充てた役だったのかな、と思ったり。
■観劇から既に一月近くが経ったが、「第五巻」の余韻は今もうっすらと体の中にある。劇中流れる八犬士のメロディー、その一節がまだ耳の奥に残っている。
僕たちは生きている 忘れられても生きている
私たちは生きている 街が死んでも生きている
■あれ、さらに長くなった。書くのに一時間半もかかった。誰が読むんだ一体。イロイロとネタも溜まってしまったので、次回からはいつものノー天気な日誌に戻ります。推敲もする。11月も終わってゆく。
小野寺邦彦
ラベル:
トウキョウ・エントロピー