#061 10月のこと(その②) 2010.11.06.SAT


■前回からのつづきです。

■23日夜、座・高円寺にて遊園地再生事業団「ジャパニーズ・スリーピング 世界でいちばん眠い場所」観劇。千秋楽前日で客席は満席。「ニュータウン入口」以来3年ぶりの宮沢章夫作品。期待に違わず、素晴らしい舞台だった。芝居の間中、刺激されっぱなしで頭の回転が止まらない。眠りと死のドラマ。美しい美術、映像、ミニマルミュージック。引用とインタビューからなるせりふ。一つ一つの要素が触媒となって、今私が考えていることにも次々とリンクされてゆく。頭の中にバラバラにある、雑多な考えに線が引かれて繋がってゆく。世界が現れてゆく。

■まず、フライヤーが素晴らしいです。ドラマの予感を感じさせる、美しい写真。舞台は上手と下手に複数台のテレビモニターが設置されており、出番のない役者が腰掛けて待機。ステージ中央に長椅子が一脚。舞台奥と床面は鏡張り。舞台奥の鏡面(金属打ちっぱなし風)に大きく、様々な映像が写る。内容の方は、眠らない男、今まさに眠っている女、いつも眠っている男、異常なほどよく眠る女、そしてセカイで一番眠い場所をしっているという女などが現れて「眠り」に纏わるエピソードや独白、引用やインタビューなどが断片的に、時には繰り返し語られる。ハッキリとしたストーリーはなく、いわゆるコラージュ的な作風。各エピソードごとの繋がりはそれほど強くはなく、「眠り」というキーワードやいくつかの共通する情報がそれぞれのイメージを繋げてゆく。デジタルビデオ・カメラを使用した映像の使い方が練られていて、面白い。「ニュータウン入口」とはまた違った使い方。役者を生中継する。唐突にインタビュー映像が挿入される。客席をライヴで録画撮影し、すぐさまスクリーンに大写しすることで「観る→観られる」の関係をひっくり返してみせる。夢の中で自分の姿を見る、あの感覚。あらゆる手段で目の前の芝居、それ自体が夢のように脈絡なく展開していく。覚醒しながら見る夢。妙な道徳観があったり、中途半端に論理的だったりするところが、また「らしくて」おかしい。

■とは言え、終盤には一応の御褒美というか、「物語」らしい、全体を統一する枠組み(ストーリー)らしきモノも見せてくれるので安心。サービス満点だ。その「物語」とは、芝居の冒頭から何度か出てくる「男女八人の練炭自殺」のエピソード。男女八人が群馬県の山中、品川ナンバーのレンタカーとバンの車内で練炭自殺を図った、というウェブサイト上でのニュースが繰り返し読まれる。そしてその際、舞台上に腰掛けている役者の数も、インタビュアーとそのアシスタント、製薬会社の会社員を除いた八名。つまり彼等こそ、練炭自殺をした八人の当事者なんだと読めるわけですね。その八名のうち、ある者はすんなりと死(=眠り)を受け入れて眠り続け、ある者は「今まさに眠ろうとして」おり、そしてある者は「眠ることが出来ない」。死が理解できていないのですね。だって、今までに死んだことがないから。

■死ぬのが初めてなので、「死」の状態が理解できない。理解できないものを認識することは出来ない。この「死」が「眠り」に置き換えられていると見れば、つまり「眠ったことがない男」というのは正確には「眠り(=死)を理解していない男」というわけですね。「眠り」が分らないということは、相対的に「寝ているのか起きているのかも分らない(判断できない)」わけで、即ち「今、自分が生きてるのか死んでるのかすら分らん」というわけです。対照的に、一番「死」に近い、あるいは受け入れている「今まさに眠っている女」「異常なほどよく眠る女」の二人がやたらとエロく演出されているのも、暗喩的です。「生」から一番遠い人物たちが、最も肉感的で「エロい」ことが強調されます。云うまでもなく、「エロス」と「タナトス」は隣同士にあるわけですからね。

■そして芝居のラスト。セカイで一番眠い場所というのはつまり、他でもない「ここ」のことなんだ、とついに暗示される。今、あなたの立っているその場所こそが「セカイで一番眠い場所=死の現場」である、と。ここまでの過程の全ては、つまりそれに気付くまでの物語。インタビュー、エピソード、引用、独白などのレッスンを通して、死=眠りについての理解を試みる、そういうハナシであった、と。終盤のやり取りの中で、「眠らない男」が「今まさに眠っている女、」にペットボトルの水をかけるのも、死者への追悼、というか「献水」とでも言いましょうか。いわゆるお彼岸とかに墓石にひしゃくで掬った水をかけてあげたり、交通事故の現場の道端とかに花束と飲み物が備えてあったりしますが、ああいったイメージに取れて、綺麗にストンと着地しました。

■そこまで思い至って、もう一度この芝居のフライヤーを見るとですね。




ちゃんと全て写っているのですよ。恐らく「群馬県山中で練炭自殺を図る」直前なのであろう人々の姿が。(クルマのナンバーが品川ナンバーかどうかは確認できず)。それに気付くと、この写真が途端に物凄く哀しいものに見えてくる。怖くもある。文脈が全く組み変わって見えてくる。予感を秘めた美しい写真の正体は、実は死ぬために集まった人々のポートレイトだったわけだ。あるいは事前に適当な場所を探すために視察に来たときの様子なのかもしれない。そんな雰囲気もある。こういう仕掛けを芝居の始まる前に仕込んでいるところが憎い。上手いなあ。まんまと手の平の上だ。

■だからまあ、極めて皮相的に、「お話」として分りやすくこの芝居を理解しようとすれば、「ネット上で知り合い練炭自殺を図った8人の男女のうちの一人(あるいは複数人)が、自分が死んでいることに気付かず、(或いは初めて死んだので死というものを理解しておらず)インタビューや文献の引用を通じて、「死」という現象を理解し、自分が死んだのだということを理解してゆく(或いは思い出してゆく)話」と取れる。勿論、これは表現の「上澄み」であって、ストーリーを理解するという性質の芝居ではないのだけれど、「どんな話だったの!意味わかんない!」という「無意味アレルギー」の方も安心。ちゃんと「答え」は用意されています。

■謎解きのようにストーリーを追うことも出来るし、それこそ夢のように無意味なコラージュの連続としても楽しめる。あらゆるアプローチ、レベルで解釈が用意されている。多層的に楽しみ方が用意されている。エロだってある。(兎に角エロいんだ女子が)。これがサービスというものです。1時間50分、おなかいっぱい楽しんだ。観終って、ふーっと息をついてしまった。やっぱりプロは凄いよ。思索のプロフェッショナル。思索の過程、そのものを作品にしてしまうその手腕。しかも口当たりはなめらかで、「難解」さからは程遠い。さらりと凄みを見せ付けられる。そうだ、凄みだ。到底かなわない、特別な「凄み」。それがとても心地よく、嬉しいのだった。これで前売り4500円は安い。安過ぎだ。学生なら3500円。芝居を観て「安かった」という感想が出ることは(例えそれが1000円の芝居であっても)滅多に無いことだ。おいしい食事一回分より断然この芝居を取るね、俺は。

■サラっと触れるつもりがつい書き込んでしまった。1時間以上もブログの文章を書くなんて、初めてのことだ。ちょっと書き過ぎた気もするし、全然書き足りないような気もするな。今回触れられなかった、芝居の「外」からやって来る人物たち‐カメラマンやそのアシスタント、製薬会社員のエピソードなど、幾らでも書けるんだけど、まあ、キリがないのでここまでにしておきます。

■10月のこと、予想外にも、もうちょっと続きます。次回はもう一本の芝居、第三エロチカ「新宿八犬伝 第五巻 犬街の夜」について書きます。なるべく簡潔に。なるべく早いうちに。何せもう11月だ。げっ、何と11月だよ。早く書かないと12月になってしまう。シャレにならない。シャレではない。

小野寺邦彦