#058 死とネタ 2010.10.08.FRI


■昼間テレビを点けていると、あらゆるチャンネル、番組、CMで嫁と姑が争っている。

■だが実際に嫁と姑が争っているところなど見たことがないなあ、などとぼんやり思ったが、よくよく考えればそもそも嫁も姑も見たことがないのだった。よくあるんだ、そういうことは。

■図書館で新聞を開くと、隣り合って掲載されている連載コラムの内容が、共にある人物(それぞれ別人)を追悼する内容であった。そしてその中身は、ほとんどコピーしたんじゃないか?という程似かよったモノである。故人の名前だけをそのままに、そっくり入れ替えてしまっても誰も気付かないような文章である。

■新聞や雑誌などのコラムでの追悼記事、というものに長い間違和感を抱いてきた。

■連載コラムというのは毎日・毎週、定期的に特定の筆者が書き続けるものだ。当然、筆者は常時「ネタ」を探している。仕事として、自分に与えられたワクを埋める「ネタ」だ。誰かが死ぬ。有名人であったり、何かの功労者であったりする。時には犯罪者だったりもする。格好の「ネタ」である。そして、調べて、何かそれらしいことを書く。今回のワクが埋まる。一丁上がりである。そして一瞬で忘れ去るに違いないのだ。

■数年前のこと。ある人物のコラムを纏めたものを読む機会があった。週刊誌に2年に渡って連載されたものだ。一読して驚いたのは、その内容の四分の一程度が「追悼」文で埋められていたということだ。実にさまざまな職種・業種のヒトビトが次々と追悼されてゆく。何か自分に絡めたエピソードを披露して(それはほとんどの場合、故人と直接関係のない、個人的で一方的なエピソードである)最後に「冥福を祈る」云々。判で押したような「埋め草」である。人の死が、そうやって使われてゆく。消費される。

■客観的に考えて、一人の人間が(或いは一介の物書きが)、そんなに多くの人間と生前深い付き合いがあったとは到底思えない。追悼文を書く、というのには資格があると思う。本当の意味でその資格を得る機会は、人生でも一度か二度、あるかないかのハズだ。

■いつの頃からか確立してしまった追悼文というフォーマットが、作家、エッセイスト、コラムニスト、ライター、編集者、その他締め切りに追われる物書きたちの、その場しのぎの格好のネタになっている。それは事実である。胸の悪くなる事実だ。

■私は別にモラリストではない。ただ「死」というモチーフの扱い方の、あまりの杜撰さ、横着さに辟易するだけだ。小説、映画、ドラマ、芝居、ゲーム。あらゆる物語の中で人が死ぬ。殺される。多くは杜撰に、安易に。涙を搾り取るネタとして。ドラマを盛り上げるアイテムとして。物語とは、「つくりもの」である。しかし今、私はこう考える。

物語で一人の人間が死ぬとき、現実にも人が一人死ぬのだ。

誰か、この言葉の意味が分るだろうか?私にはまだよく分らない。これは直感だ。しかし、正しい直感である。その自信がある。それを証明するために、次の芝居を書く。だがそれはまだ、随分先のことだ

■この一月、ずっと死について、考えている。まだまだ考える。

小野寺邦彦