#050 キャラを演じる 2010.08.21.SAT


■電車で向いの席に座っていた男女。

■女性は大胆にも胸元が大きく開いたシャツに、超ミニスカートの足を組んだ格好。シッポリと隣の男性の胸元にしなだれかかりながら甘ったるい声で、
「ユミ子さあ~あの子~、ちょっと女の武器使い過ぎ~。見ててハラハラするから~」
女の武器を使いながら話をしていた。何だかなあ。何だかコントとかに出てくる「色っぽい人」っていうキャラみたいで、妙におかしみを感じたのだった。

■自分にキャラ設定を課している人間というのは、外から見ると大変に滑稽に映るモノですよね。本人がそのキャラを忠実(と思い込んで)に演じれば演じる程、その人の存在感が現実から逸れて浮いていく。まあ早く言えばウスッペラくなっていくわけです。「いねえよ、そんな奴!」ってことですね。「ガリベン君」やら「ヤンキー」やら「オタク」の人やらといった、類型的なキャラクターといったものがソレです。それぞれの人々は己のキャラクター原理に忠実であり、自分のキャラから外れた行動・思想は一切取らない。こういうのはテレビ向きの演出です。映った瞬間、その人物が何者か分る、という。従って先の展開もほぼ100パーセント分るので、究極、見る必要がない。だからテレビはつけっ放しにしながら友達にメール打ったりお喋りしててもいいわけです。話は分ってるんだから。ストレスにならない。今、テレビの、例えばドラマなんかで予定調和を崩したストーリーを流すと「難しい」「意味が分らない」と言われるそうです。見てないからです。誰かが階段から転がり落ちるシーンを映す場合には、登場人物に「アっ、〇〇が階段から転げ落ちた!」ってセリフを言わせなければいけないそうです。

■しかし舞台は「ながら」で観てもらうものではない、むしろ集中力をフルに使って観て貰うものなので、キャラ芝居というのは危険です。先の展開が読めた瞬間、そしてそれが裏切られることがなさそうだと感じられた瞬間、時間を確認したりトイレ行きたくなったりメール打ちたくなったり隣の人とお喋りしたくなったり眠くなったりするのです。少なくとも僕は、今のところ「役づくり」や「キャラクター設定」なんてものは不要だと思っています。役者、演出家共にもっと技術が付いてきた場合にはわかりませんけど・・・。

■しかし「演じすぎていて面白い」というのは、改めて考えさせられる問題ではある。今の言葉で言うなら「イタい」ってやつだろうか。嫌いな言葉だけど。「不思議ちゃん」や「天然ちゃん」にも通じる問題である。「あの子、キャラ演じ過ぎだよね」といった言葉にハッキリと存在する、否定と嘲りのニュアンス。「キャラ演じてる」人に、その感情が届いていないわけがない。では何故そうまでして彼ら、彼女らは「演じる」のだろう。「イタい」奴だと言われながらも「キャラ」を通し続けるのだろう。単に鈍感なだけなのだろうか。「周りが見えていない」のだろうか。「空気が読めてない」のだろうか。そればかりではないんじゃなかろうか。例えば「キャラを演じ」続けなければならない、極めて個人的な、ある切実な事情があるのだとしたら。もしそうなら、それは一体どんな「事情」なのだろう。私は、それが知りたい。物凄く知りたいのだ。

■今後、もうちょっと考えよう。涼しくなってきたことだし。ヒマに任せて考えることは山ほどあるが、そんなことに頭を悩ませている私は、ハタから見れば「只のボサーっとした人」だ。今日は甲子園の決勝戦。ボサーっとしながら観戦する。

小野寺邦彦