#048 シュール考 2010.08.10.TUE
■道行く子供が母親に聞いていた。
■子「お母さん、たんし、って何?」
母「え?たにし?」
子「たんし」
母「たにしでしょ」
子「たにし、じゃなくて、たんし!」
母「それは、たにし、よ」
子「たんし、だって!」
母「たにしの聞き違いよ」
子「そうかなあ」
母「そうよ」
子「じゃあ、たにし、って何?」
母「貝殻よ」
子「へ~」
・・・いや、お母さん、多分「端子」のことを聞きたかったんだと思いますよ。
■しかし、まあ、あれですね。ちょっと話は違うんですが、何度見ても、全く、一ミリも意味が分らない言葉というのが、世の中には、ままありますよね。私にとっては「ファッションヘルス」という言葉が、まさにソレです。昨日も五反田の駅前を電車で通過する際に、デカデカと掲げてあるその看板の文字を見送りながら、考えておりました。分らない。全然、分らない。アノお仕事のドノ部分が「ファッション」なり「ヘルス」なりに対応しているのか、も、ぜーんぜん分りません。調べりゃ由来とかは分るんでしょうけど、そういう問題でもナイんです。
■自分の従事しているお仕事の実態と、それに付けられている名前とがナンの関係もない、もしくは乖離しまくっているとしたら、アナタは耐えられるのか?若し本屋さんが「バーニングところてん」という業種名だったらどうです?「ホモサピエンス柔道」という焼肉屋に入りたいか?「いたこ」というクリーニング屋には?ああ、目が回る。
■人の名前なんかでもよくありますよね。所謂、「あて字」というやつです。「大」と書いて「ひろし」とか。「翔」で「かける」とか。最近では「平和」と書いて「ぴーす」なんてのもある。これを突き詰めて考えると、早い話「太朗」と書いて「じろう」と読んでもいいわけです。「信彦」と書いて「ごんざえもん」と読んでも良い。シュールですよね。名前というものの欺瞞性を点くための狡猾な手段だとすら思えてくる。まあ、そんなこと100パーセント、ありえないんですけど。
■これは、コントの構図ですよね。実存と本質が際限なく逸れまくってゆくという。だから目が回る。フィクションの構造を現実にいきなりポンと持ってきてしまうから、クラクラする。しかもそれがセックス産業という、まあ極めて俗っぽいところに現れるというところが、また迷宮的でヨイわけです。ある日「ファッションヘルス」が「パッションファルス」になったとして、問題にする人は、多分いないでしょう。彼等は、名前なんか問題にしていないから。
■けれど問題にしていないものにも名前を付けなければいけない、というところに現代喜劇のミソがあるともいえる。「なんでもいいよ」。この「なんでも」が難しいんですね。「なんでもいい」というのは、逆説的に考えれば「なにをつけてもシックリこない」ということでもある。昼メシ食べる際に「何食べる?」「何でもいいよ」というのは、「何でも食べたい」のではなく、「特に食べたいものがない」という意味でしょう。その結果は大抵「じゃあラーメンでいいいか」と「取り合えず無難」なものに落ち着くのが相場でしょう。そこで「ファッションヘルス」。「何でもいいんだけど取り合えず」で付く名前が「ファッションヘルス」。どういうセンスだ?昼メシが決まらず「ナンでもいいんだけど、んじゃあジンギスカン」とか言う奴、いるのか?論理では埋め切れない大きな溝がここにある(気がする)。
■と、ここまで書いて気付いたのだけど、これはそのまま「ヘンな名前のマンションや団地」にも当てはまりますね。あるでしょう、「メゾン・ド・セリーヌ川のほとり」とか「モンマルトル神田川」とか、そういうの。「取りあえず」「何でもいいから」その言葉の先に、迷宮がある。尽きせぬ謎がある。
小野寺邦彦
ラベル:
トウキョウ・エントロピー