#046 夏を計る単位 2010.08.06.FRI
■体調が思わしくなく、ごろんと寝転がって過ごす午後。遠くで子供の声がする。「夏はセンチメートルになるって!」うん、多分それはセンチメンタルだ。
■かれこれ10年以上は使っていたオーブントースターが壊れたのだった。
■昨日までは何の問題もなく、全く普通に使えていたのだ。それが今日、突然、カクンという感じで動かなくなってしまった。
■モノが壊れるときには、二つのパターンがあると思う。一つは、ちょっとずつ、ちょっとずつ壊れていき、もうダメかな?いやまだ使えるかな?と騙し騙し使っていく内に、やがて「もうダメ」という感じで使えなくなる場合。この場合はまあ、「壊れかけ」を使っているわけだから、使っている方にも覚悟というものがある。不謹慎にも人間に例えれば、10年間、入退院を繰り返した闘病の果てに逝った人、という感じ。家族もそれなりの覚悟はもう出来ている。お疲れ様でした、という感じだ。
■それに対して、直前まで全く壊れる素振りなど見せずに働いていたのに、ある瞬間、急にパタリと動かなくなり、それ以降ウンともスンとも言わなくなってしまう、という壊れ方もある。100あったパフォーマンスが80、70、と徐々に低下していく、というのでなしに、いきなりの100からゼロだ。働き盛りの40代サラリーマンがある日脳いっ血で突然ポックリいってしまうという感じだろうか。周囲の人間は心の準備も出来ていないのでアッケにとられてしまう。
■学生時代に読んだ詩でこういうものがあった。交通事故で突然、子供を失った父親のことを書いた詩だ。葬式が済んだ後、父親は冷蔵庫を開ける。そこには子供が「欲しい」と言ったので買った、箱詰めのオレンジが開封されることなく入っている。父親はそのオレンジの出荷された日付を見る。子供が死ぬ数日前の日付が刻まれている。父親はイメージする。大きな畑で計画的に栽培され、出荷されたオレンジがスーパーに運び込まれ、パッキングされ、陳列される。それを子供が手に取り、買い物籠に入れる。全ては偶発的に思える。しかしその実、それは綿密に用意されたものなのだ。農場でオレンジの種が蒔かれたその瞬間から、息子の死へのカウントダウンは始まっていたのである。栽培され、出荷され、パッキングされ、陳列されるオレンジのように、それは計画的に用意され、粛々と近づいてきていたのだ。ここでは、死というものが、逃れられない予定調和の中に約束されている。全てのことは偶然ではないのだ、という考え方がある。
■僕は運命論者ではないし、「おおいなる力」みたいなものを感じた経験もない。今後もないだろう。だた、次第に壊れていくものと、突然(に見えるように)壊れてしまうものとがあり、後者の方がその驚きや悲しみは深いというだけだ。芝居を作るとき、どちらが「あざとい」表現だろうか。そしてそれは何に対する「あざとさ」なのだろう。答は分っている。これは次の芝居で使うだろう。
■なんだか夏だからか、感傷的になってしまった。この感傷は、う~ん、何センチメンタルだ。
小野寺邦彦
ラベル:
トウキョウ・エントロピー