#038 退屈の風景  2010.03.10.WED

■今更にも程があるが、敢えて言おう。やくみつる。金髪・髭のチンピラにしか見えない風貌で、人の腰パンルックをどうこう言んじゃない。

■八王子にある、架空畳の事務所の上の階に、絵に描いたようなヤンキールックの女性が住んでいる。先日、出掛けにすれ違ったとき、黒々とした筆文字で「般若」とバックプリントが施された半纏をまとっておられたので、すわカチコミか、と気色ばんだ。その2時間後、近所のコンビニにてバイトをしている彼女を発見した。普段着かー。

■ここ数日、朝の早い時間に電車に乗ることが続いた。所謂通勤・通学の時間帯。ラッシュは厳しいが、朝、人々の会話をチラチラと聞くのは楽しい。それで気付いたのが、あまりテレビ番組の話をしている人がいないということだ。

■私が高校生の頃は、朝の通学電車の中で「昨晩みたテレビ番組の話」を話題にしている人は多かった。特に女子に多かったと思う。テレビドラマや歌番組の感想などをきゃいきゃいと言い合っているのが当たり前の風景であった。そういった会話が毎朝、聞くともなしに耳に入ってきた。おかげで、あまりテレビを見ず、芸能人などに疎かった私でも、何となく情報を仕入れることが出来た。今は、もうまるでダメだ。自分の知っていることしか知らない。

■電車の中というのは、「退屈の風景」である。ある場所から、目的地へと移動する。誰もがその過程の時間を、どうにかやり過ごそうとする。お喋りをする。読書をする。音楽を聴く。化粧をする。睡眠を取る。そんな風景も、気付けばここ数年で大分変わったようだ。今は携帯電話、ゲームにアイポッド。10年前に比べてそれらのグッズの充実ぶりといったらどうだ。どれも子供の頃、「こんなモノがあったらいい」と思ったようなモノだ。夢のオモチャだ。では、電車の中でそれらに興じる人々の姿が充実しているように見えるかといえばそんなことはない。それはやはり退屈そうだ。

■オモチャというのは、退屈を紛らわせるために生まれたモノだからだ。だからオモチャの方がどれだけ進化したとしても、それをいじくる人は―どれだけ熱中していたとしても―本質的に退屈なのだ。ただ、風景は変わる。退屈であることに変わりはナイけれど、その風景は確実に変わってゆく。

■例えば、芝居を観にいって「退屈」を表現するシーンで、役者が「携帯電話をいじる」マイムに出会うことが結構ある。うつむいてカチャカチャとケイタイをいじる、この姿一つで(しばしば安易に)「退屈」が表現される。当たり前のコトだけど、20年前にこの表現はなかった。では代わりに何をしていたのかと思うと、これはたぶん「タバコを吸う」というマイムがそれに近い役割を担っていたのではないか。私が芝居を観始めた頃、「タバコを吸う」マイムはまだ多かった。役者は舞台上でよくタバコを吸っていた。そして10年、気付けばあまり見かけない。

■ゆっくりと、その姿を変えてゆくものに気付くことは難しい。

■昨日は季節外れの雪。今日は午後から快晴になった。溶けてべしゃべしゃになった道を自転車で突っ切った。楽しかったが、背中に一本、泥の線が入った。

小野寺邦彦