■毎日稽古をしている。
■先週の話。架空畳照明のずんだ先生に請われて照明の仕込み補助のバイトをした・・・と言っても実態は頭数あわせで、仕事らしい仕事はまるでなく、午前中に灯体を吊ってしまった後は(それもずんだ先生が四分の三を吊った)特にやることも無かったのだ。楽なバイトを回してくれた先生には感謝してもしきれないのである。で、その仕込みというのは、中学生の演劇大会用のものであった。
■中学生や高校生の演劇大会というのは、照明や音響のオペレーション操作(オペ)も生徒がやるのである。午後からは、そのためのリハーサル。入れ替わり立ち代りに中学生が現れて、小一時間ばかりの間に場当たりとか、キッカケとか照明音響卓の操作をして、時間だぞ~と煽られて大慌てで帰ってゆく。と、既に次の学校がスタンバイしていて、また一さらい。それが切れ目無しに五、六校も続く。何せ一つの会場で2日の間に15校ばかりが上演するというのだから、慌しいのである。
■で、察しが付く方もおられると思うが、中学生の演劇部、というのはこれはモウ97パーセントくらいは女子なのである。14,5歳の動物のような中学生女子が、5人も6人も固まって、きゃいきゃいと大騒ぎで機材をいじくっているのだから、姦しいことこの上ない。箸が転んでも笑う年頃というけれども、何がおかしいのか、皆終始、ぎゃはぎゃはと笑い転げながら作業をするのだった。その姿を後ろでぼ~っと眺めている私。
■半日、彼女たちの会話を聞いていて感じたのは、その言葉の過激さである。とりわけ「死ね」「殺す」という言葉が、どの学校のどの子の口からもポンポンと出てくることに、ぎょっとした。「マジ殺す」「マジ死ねよ」「埋めるぞ」といった言葉が5秒に一回、言葉の枕に現れる。勿論、本当に「殺したい」と言っているわけではない。常套句というか、反射的にどの言葉にもくっつくのである。
■例えば教師に注意された直後に「あ~あのハゲ、マジ死んでくれ」と、出る。それを当の教師の5メートル前で言っているのにも驚くが、教師もその言葉にはスルーである。全く問題にしていない。つまりこの場合の「殺す」の意味合いは「ちぇっ」という舌打ち程度のものであって、この世界に身をおいている者にとっては常識的で日常的な物言いなのだろうと思う。「気分」というか。
■僕らの頃は多分それを「むかつく」と言っていた。確かに中学生・高校生くらいの頃、何かというと「むかつく」「むかつく」と言っていたように思う。別に何かにイチイチ「むかついて」いたわけではない。それは今生きていて、生活している中で、のっぺりと、全体的に感じていたまさに「気分」そのものを表す言葉だった。だから息をするように「むかつく」と言ったし、その言葉が、当時の自分にはしっかりフィットしていたのだった。「むかつく」というしかない感覚が確かにあった。
■それが今は「殺す」になった、それだけの話である。けれどその言葉と実際の感情の隔たりの距離は凄い。「ちぇっ」という感情で「殺す」という言葉が出るのだとしたら、本当に「殺し」たいほど怒ったときは何というのか。今風に言えば「普通に殺す」かな。(普通に、という修飾句についてはまた改めて書く)
■ま、しかしそうやって子供の中に半日もいればすっかり慣れてしまい、「殺す」も「死ね」も気にならなくなってしまった。たった数時間一緒にいただけでこうなのだから、日々彼女らと同じ空間に生きている教師たちから、社会性というものが失われているのも仕方の無いことなのかもしれないな。ただ学校の外で一般の大人相手に、何の気なしについぽろっと「殺すぞ」と出てしまったらどうなるのだろう。そしてそれは確実に起こることだろうと思う。
■寒い日々。八王子には雪も降った。稽古はマアいろいろとあるが、まずまず順調である。 皆頑張っている。一つ言えることは間違いなく面白い作品になるということ。チケットのご予約の方、宜しくお願いしますね。
小野寺邦彦