■少し前に、疲れるバイトをした。
■ある限定されたシチュエーションでのギャグ(面白いコト)を考えるというものだ。100個くらい考えた。その一つ一つを、何処が面白いのか、何故面白いと思うのか、会議で説明するハメになった。その会議には僕の他に5人の人間がいて、僕の考える「面白いコト」に、彼らは丁寧にツッコミを入れていく。
そこは面白くない、ここはこうした方が良い、意味がわからない・・・etc.
で、その残りの5人の考えた「面白いコト」も全員で聞き、またツッコミを入れていくわけである。その作業を丸一週間。 どうです。聞いただけでも疲れてくるでしょう。結局採用されたのは2本だった。どこかのラジオ番組で誰かが使ったそうである。
■そのとき思ったことはネタというのはそれ単体では何だって面白いし、同時にツマラナイということである。
その人が言うから面白い、ということがある。
誰が言っても面白い、というものはあまりナイ。
結局ネタではなくヒトだと思う。ネタはその人の面白さを引き出すキッカケであるに過ぎない。これは舞台のセリフも全く同じ。その意味では大変に勉強になったものである。
■その会議が消耗したのは、考えられた「ギャグ」を「誰が」言うのか、という視点が欠けていたためだ。「あいつがこれを言ったら面白いか」という発想がなかった。だから失敗した。
■僕がこれまでに聞いたギャグ(面白いコト)の中で、笑ったものは幾つもあったが、スゴイと思ったものは一つだけである。小学校の高学年くらいのことだったと思う。昼間にやっているワイドショーを見るとも無しに見ていたときの事。盲目の少女が普通科の中学校に入学する権利を得た、という「感動モノ」のレポート。レポーターに「中学校に入ったら何をしたいですか」と聞かれて少女の曰く、
「一目ぼれをしてみたい」
■笑いとは、事象を相対化することであるとすれば、「感動」という、自分自身に求められている価値を十分に理解した上でソレをひっくり返してみせた、これは完璧なギャグであった。しかも彼女にしか使えない必殺技だ。「あんたに言われちゃ、しょーがない」というやつである。一本お手上げ。自意識過剰になりがちな中学生という年齢で、自分を客観視しつつ、なおそれを笑いに出来る。その醒めた視線に彼女のこれまでの人生が透けて見える。このギャグは彼女自身であり、その一言で彼女がキラキラと魅力的に見える珠玉の一言であった。僕は戦慄し、感動した。彼女が盲目だからではない。彼女が彼女自身のことを知っていたからである。今も、感動する。
■で、マーこの週末にコントをやるというバカ者がいる。間違っても感動などしないと思うが、見てみないことには分からないし500円で入れるそうなので、お暇なヒトはどうだろうか。 ビールも飲める。
■甲子園も組み合わせが出た。いよいよ8月。 夏が行く。
小野寺邦彦