#006 演出家不在 2009.6.4 THU


■フランスのサルコジ大統領が出てくる度に思うのだけど、この人は悪魔が人間に化けている顔をしていないか。

■新しい動き方をいろいろ試している。そのためか、稽古はサクサク進むというわけにはいかない。
じりじりと這って進むような進行状況である。
稽古場の外でも舞台の演出のことばかり考えてボンヤリしているので、淹れたばかりのコーヒーをそのまま流しに捨てたりしてしまった。まあ、台本はある。じっくりとやろう。

■以前の芝居のアンケートで、「作家はいて、役者もいるが、演出家がいない」と指摘されたことがある。痛いところを点かれたな、と思った。
それは薄々感じていたのだったが、マア同時に開き直ってもいた。
当時は作劇に夢中で、演出への欲求が薄かったように思う。
バランスを欠いていた、というか。
演出しているときは言葉への欲求だけがあり、カラダへのそれがあまり無かったのかな。
自分ではあるつもりだったのだけれど、実際の舞台を見たらアンバランスだなあ、と思うことが多かった。
単に未熟だった、というべきだろうし当然今も未熟であることに変わりはナイ。
「当時」とか言ってしまったが、ホンの一年前のことだ。

■ただこの一年あまり、ダンス、とりわけニブロールやボクデス、珍しいキノコ舞踊団などのコンテンポラリーダンス・カンパニーの公演を以前より多く観るようになり、カラダへの意識が変わってきたかもしれない。
言葉は使わなければ覚得ることは出来ない。カラダもまたしかり。
当たり前のことなんだけども、未熟なので当たり前のことをすぐ忘れる。
どうでもいいことは凄く良く覚えてるんだけどな。

■朝方、テレビのニュースを聞くとは無しに聞いていると、キャスターが、ある轢き逃げ事件を伝える際に
「女が女性を車で轢いた」
という言葉を使った。
こういう場合に「女性が女性を轢く」と言われることは絶対にナイ。
ここにも、ある感情に意識的に導こうとする、恣意的なコトバがある。

小野寺邦彦