#069 旅する缶コーヒー 2011.01.28.FRI


■書店で雑誌を立ち読みしていると、隣に5,6人の女子高校生の集団がやってきて、一冊の雑誌を回し読みし始めた。「マジで」「ウソウソ!」「ありえねえって!」「妄想、もうそう!!」キャッキャキャッキャと大変に姦しく、ページを繰るたびに大騒ぎである。それでも5分ほどもすると「くだらね~ww」と雑誌を投げ置き、嵐のように去っていった。ポンと放り出されたその雑誌を、何となく棚に戻そうと手に取れば、その表紙には蛍光色のドでかい文字組みで「モテガール完全マニュアル バレンタイン必勝法!!」とある。

■その後10分程も経っただろうか。立ち読みを切り上げた私が棚を離れて店の入り口へ向かうと、入れ違いで先ほどの女子の一人が入って来た。オヤ、と思って彼女を目で追うと、まっすぐに件の棚へ向かい先ほどの雑誌を掴んでレジへ。サッと会計を済ませてカバンに押し込むと、足早に出て行ったのだった。風の如く一分の無駄も無い動き、その間約20秒の出来事である。

■感服すると同時に、しかし私には妙な既視感があった。風のようなあの挙動、俯きがちのあの表情。いつかどこかで見た風景ではないか。それも恐らくは、とても身近に・・・。そこでハタと思い至ったのである。そうだ、アレは男子がエロ本を買ってゆく姿と寸分違わず同じものではあるまいか。ああ、そうか。そうだったんだね・・・。何だか奇妙にも爽やかな感動を覚え、胸がいっぱいになったものである。

■日中はだいぶ日が差すようになった。とはいえ、外へ出ればまだまだ寒い毎日。電車の待ち時間やちょっとした合間に飲む缶コーヒーの摂取量がついつい多くなってしまう。ポケットに片手を突っ込み小銭をまさぐりながら、自販機に向き合ってフと気づくことは、コーヒー以外のほぼ全てがペットボトル飲料であることだ。今や「缶」は確実に減少の一途を辿っているのだろう。エコや資源回収の問題などもある。やがて飲料類の全ての容器がペットボトルになることも自明のように思われる。でもなあ。やっぱりコーヒーは「缶」だよ。缶コーヒー。仮にペットボトルに熱々のコーヒーを詰めてみるがいい。ペットコーヒー。飲みたくない。断じて飲みたくないぜ、ペットコーヒー。間抜けな響きだ、ペットコーヒー。

■・・・などと思うと同時に、しかし例えば実際に全てのコーヒーが「ペット入り」になり、初めはブウブウと文句を言う者が少なからずいたとしても、数年も経ちその形態が浸透してしまえば、ごく自然にそれを受け容れるようになるのだろうとも思うのだ。思い返してみれば昔は自販機で売られているジュースだって「缶ジュース」と言ったのだ。言ったでしょう?事実、缶に入っていたのだから。だが今聞くその言葉、「缶ジュース」って何だか「死語」と感じられるじゃないか。コーヒーだってペットだぜ、という時代が来たって何ら不思議はない。ないどころか、

「やはりコーヒーはペットさ」
「ペットに入っていてこそのコーヒーさ」


そんなことを囁く者さえ出てこないとも限らない。いたら殴ってやるが。けれど今の我々にしたって、19世紀のニューヨーカーから見れば「缶に詰めたコーヒーを飲むなんて!」とヒンシュクを買うこと必至であろう。「正気かい、ミスター?考えてもみなよ。だってそれ、缶だぜ、缶!」。

■コンビニや自販機でお茶や水が売り始められた当時、小学生だった私は、誰がそんなものを買うのかと思った。それが今やこの2種が、全ての飲料水の中での売り上げトップ2なのだ。きっとそのうち空気だって買うようになる。そのとき、コトバはどうなっているだろう。小説、映画、テレビ、演劇。空気をも買うようになった時代に、コトバに支払うカネが果たして残るものだろうか。餓死する直前に食べ物ではなく、コトバにカネを使う人間がいるものか。例えいたとしてそれは、コーヒーはペットボトルではなく缶で飲みたい、という程度の意地に過ぎないのかもしれない。淘汰されれば「昔はそうだった」という程度のハナシなのかもしれない。コトバにカネを払った時代もあった。ではその歴史はまた、どのようなコトバで語られるのか。

■何のハナシか分からなくなってしまった。

■夜中、ビデオをつけっ放しにしながら読書をする。1972年の映画「殺人者にラブソングを」。たまに思い出したようにチラリと画面を見れば、44マグナムを構えるロバート・カルプの顔。「ダーティーハリー」イーストウッドにも決して負けてはいない。

小野寺邦彦

#068 神様のピンチヒッター 2011.01.27.THU


■『私は実は心理学に通じているのだが、あなたをプロファイリングしてあげよう。喋る際に口角が下がったままだ。猜疑心の強い性格だね』って爪を噛みながら喋る貴様こそ一体何なのだ。

■昨年末、身の回りをイロイロと片付けていると、高校生のときに書いたと思しき映画の脚本や資料などがドサドサと山のように出てきた。その内容に関してはもう全く忘れていて、本当にコレを俺が書いたのか?と疑いたくなるほどの頭の悪さにクラクラする。まあ最近でも芝居のアンケートで頻繁にボロクソ書かれるので、実際には大して変わっていないのやも知れぬ。資料もイロイロと頑張って集めているのだが、何しろネットなどそう普及していなかった時代のことである。今ではアっという間に集めてしまえる程度のものばかり。次々とゴミ袋に放り込んでいく中で、しかしフと、ある資料の一群に目が留まったのだった。それは野球の「ピンチヒッター(代打)」のルールに関する資料であった。そういえば何となく覚えがある。確かにある時期、そんなものを調べていたっけか。しかし一体何のために?

■野球の(まあ他の多くのスポーツもそうであるのだろうけれど)ルールというものは、一見単純な規則のように思えるものでも、本格的に調べてみれば結構複雑かつ厳密に制定されているものである。膨大なインデックスを誇るルールブックの中の一項目だけでも、取り出してみると存外な分量になる。まず有り得ないが、万が一起こる事態に備えての取り決めなども網羅されているためで、そういった項目を眺めているだけでも結構面白いものだ。パラパラと資料を繰っていると、中に赤のラインマーカーで太く囲まれている一文を見つけた。そこには、こうある。

〔席の途中で打者が交代した(代打が出された)場合、打席が完了した時点における打者にその記録が付く。ただし例外として、2ストライクを取られた後に代打として出場した打者がストライクを取られ三振した場合は、2つ目のストライクを取られた打者に三振が付く。〕

■ああ、そうだ。そうだったのだ。かつての、そして少し前までの私は、確かにこういう所から物語のアイディアをデッチあげていた。今見ても感じる。ここには何がしかの鉱脈がある。幾通りものエピソードを引っ張りだすことが出来るだろう。つまり、起点である。この一文を拠り所にして、一本の芝居を書くことだって不可能ではない。事実、芝居を始めた頃の私はそのようにして何本かのシナリオを書いたのだ(蛇足ながらも一応書いておくと、これは勿論形而上的なハナシであって、私が野球のハナシを書くとかそういうことではないですよ、架空畳のお芝居を未見の方)。けれど今、私はそういった発想の方法に、ほとんど魅力を感じない。きっと書き過ぎたのだと思う。食傷してしまったのだ。このような発想の仕方は、驚くほど私にフィットしていた。し過ぎていたのだ。

■旗揚げ当初、異常なハイペースで台本を書き飛ばす中、その方法が発想の手管として自覚されていったことで、私はすっかり飽きてしまった。今は別の方法を考え、試している。やがてその方法にも飽きるのだろう。そんなことを繰り返して気がつけば、とんでもない場所に立っているのかも知れない。しかし、かつて私がこのような方法で書き始めた、ということは覚えておこうと思う。感傷的な意味合いからではなく、むしろそこから遠ざかるための忘備録として。

■寒い寒い夜の道。一人で歩いていると、フと昨年の暮れの、やはりひどく寒かった夜のことを思い出す。知り合ってあまり間のない結構年上の人に不意に誘われ、忘年会で喧しい居酒屋の片隅でひっそりと飲んだ。店に居た時間の9割以上は説教をされていた。別れ際、少し酔ったらしいその人は、私の肩を乱暴に叩き、大きな声で「まだまだだね!君は、全然、まだまだだ!」と言って去っていった。姿が見えなくなるまで、何度もこちらを振り返り、「まだまだだ!」とがなり続けた。嬉しかった。それがとても嬉しかったのだ。そうか、まだまだか。まだまだ出来る。なんだって出来るのだ。

■そんなわけで年が明けていました。2011年。何が変わるというわけでもないのですが、昨年までと同様、まあ気楽に眺めて頂ければ幸いです。せめて気だけは楽に持ちたいものですね。重いものが多すぎますから。ジュラ記も、もうちょっとちゃんと更新できればとは思いますが・・・。キッチリ更新すれば、結構読者がついてくれる、有難い状況にありますので。ひとつ、よろしく。

小野寺邦彦

#067 アンダーグラウンドパレス 2010.12.15.WED


■早朝の山手線、通勤・通学ラッシュの最中でのこと。人ごみの中でのすれ違いざま、女子大生風の若い女性が友人にこう話しているのが聞こえた。

「バイトを辞めて、彼一本に絞ることにしたの!」

果たしてどのような状況だったら『バイト』と『彼』が並列の関係になるのだ?しばらく考えてみたのだが・・・すいません、イヤらしいことしか思いつきませんでした。

■仮に『バイト』を別の言葉に置き換えてみれば、その特異さがより伝わることだろう。

「ご飯を辞めて、彼一本に絞ることにしたの!」
「ダイエットを辞めて、彼一本に絞ることにしたの!」
「洗濯を辞めて、彼一本に絞ることにしたの!」

どんな彼氏だ。

■夕方のこと。音楽をやっている友人からライブの誘いがあったので出掛け、ライブハウスの前までやって来たのだが、中には入らずそのまま帰ってしまった。だって、恐かったのだ。入り口がとても恐かった。

■ライブハウスというのは大音量を出すために、大抵、地下に作られている。中に入るためには階段を下って行かなくてはいけないワケだが、その階段のワキに人が溜まるのである。急角度で設置された狭い階段、それこそ人一人すれ違うにもやや体を傾けてやっとという広さの階段である。その一段目から最終段まで、片側縦一列にズラリと居並ぶ革ジャン、革パン、長髪、モヒカン、金髪、ドレッド、ヒゲ、グラサン、タトゥー有りな猛者の面々が『機関車やえもん』の如くタバコの紫煙をジャブジャブ吐き出しているその脇を、「ちょいと失礼」と通り抜けていく無言の約7秒間というのは、想像するだけで身が竦む。例え自意識過剰と罵られようとも針のムシロに進んで座りたがる者はいないのだ。いたらそいつは変態である。変態め。私は違う。

■シャーマンは化粧や仮面や踊りで聖域を作りだすが、彼らライブハウサーの場合はタトゥーや髭や革ジャンで、文字通りの意味で場にバリアを張っているというわけだ。しかしこれは何も特別なハナシではない。「場所」というのはすべからくそうやって作られるものだ。自分の場所。自分たちだけの場所。躊躇なく立ち入るには特定の資格が必要な場所。だからその「場所」に憧れを抱く者にとって、そこへ自分が足を踏み入れることが出来たときはたまらなく嬉しいものである。同じ嗅覚を持つ「仲間」でなければ入り込むことの出来ないその場所に、自分は今足を踏みいれているのだ、という喜び、優越感。狭き門というのは、半ば閉じられているからこそ入りたくなるわけであって、誰であってもホイホイ入れるのであっては意味がない。魅力がない。そのための結界だ。通行手形を持たないイレギュラーな闖入者は、そのバリアに身を焼かなければ進入を許されない、そうであるべきなのだ。だからまあ、怖いのは仕方ない。仕方ないんだけどなあ。やっぱり怖いよ。

■初めて入った居酒屋。初めて入った喫茶店。一人で入ったオールナイト上映の映画館。古本屋、ライブハウス、ゲームセンター、クラブ、或いはインターネット、そして劇場。惹きつけるもの、それはアンダーグラウンドの魅力だ。学校と家庭以外の、第三の居場所。勿論私だってその空気にモロにやられた口だ。劇場を借りて公演を打ち、初日が空けた翌日の朝。まだ誰もいない客席に一人座って目を閉じるその瞬間が、人生で一番好きな時間だ。・・・でもね。そこは結局、学校でも家庭でもないのだ。数時間、一晩、数日過ぎれば去らなければならない場所なのだ。住む為の場所ではない。訪ねて寄る場所なのだ。帰る場所は、他にある。ライブではモヒカンの兄ちゃんも、明日のバイトでは髪を下ろして束ねるのだ。

■私は、劇場という場所の悪場所としての魅力は十二分に理解しているつもりだし、その臭いが無くなれば、芝居の魅力は消えうせるだろうことも分っている。けれど同時に、恐々とその扉を開けた一見さんをギロリと睨みかえすようなマネはしたくないのだ。終演後、役者やスタッフ、歓談する関係者の知り合いでごった返すロビーを、速足で通り抜けてゆくお客さんの顔も、これ以上見たくはない。どちらかと言えば、私もそうゆうタイプの客だったからだ。では、どうすればいいのだろう。・・・難しいね。取り敢えず、上演後にはロビーに出て挨拶をするべきなのだろう。オペ室に篭城してダメ出しのメモを整理しながら、舞台監督の「完パケです」の声を待っている場合じゃない。どうにもシャイだからね、私は。

■つけっ放しのテレビ。2時間サスペンスドラマの画面からはチープなセリフが無尽蔵に連打される。今、ドアを叩きつけながら女が部屋から出ていった。捨てセリフは「もういい!」だ。そう言われて「もうよく」なったことがないなあ。なんてしょうも無いことを考えながら過ぎる午後。時間はゆっくりと流れている。

小野寺邦彦

#066 縫って縫って縫いまくれ 2010.12.13.MON


■電車内で大森望・豊崎由美著『文学賞メッタ切り!リターンズ』を読んでいたのだった。

■しばらく読み進めてフと本から顔を上げると、朝日新聞の広告が目に留まった。大きな文字でコピーが書いてある。

『「世相を切る」コラム』。

さらには週刊誌の吊り広告である。

『徹底告発!世間にはびこる新卒切り』

よく切るなぁ。人斬り包丁か。世間や世相も現れる度に斬られていては身が持つまい。大体、その斬り傷は誰が縫っているのだ。『「世相を切る」コラム』の隣には『世相を「縫う」コラム』があってもいい。配慮。それが配慮というものじゃないだろうか。そういえば映画『十三人の刺客』で役所広司も言っていた。

「斬って斬って斬りまくれ!」

ならばこちらは「縫って縫って縫いまくれ」だ。ジュラ記は世相を縫うブログです。嘘だけど。大体なんだ、世相を縫うって。どんな内容だ。

■本の整理をしていた一日。フと、むかし本棚一本がまるまる詩集で埋まっていたときのことを思い出す。

■それは例えば金子光春であったり、田村隆一であったり、イェイツであったり、鮎川信夫であったり、エリオットであったり、ヴァレリーであったり、北園克衛であったり、天沢退二郎であったり、黒田三郎であったり、レイナスであったり、吉増剛造であったり、中原中也であったり、タゴールであったり、石川啄木であったり、荒川洋治であったり、平出隆であったり、萩原朔太郎であったり、シラーであったり、ギンズバーグであったり、寺山修司であったり、友部正人であったり、吉岡実であったり、ねじめ正一であったり、上田敏であったり、ランボーであったり、コクトーであったり、大岡信であったり、ボードレールであったり、瀧口修造であったり、リルケであったり、高村光太郎であったり、ワーズワースであったり、ジェイムズ・ジョイスであったりした。まあつまり節操が無かった。

■それらの本はしかしある時期を境に、一冊また一冊と友人に貸し、または贈り、或いは僅かな交通費を捻出するために売り払ったり、いつの間にか無くなってしまったりといった具合で散逸していったのだけれど、何だかそれがとても自然な気がして、新たに買いなおすようなことは一度も無かった。そして手元に残った僅か数冊のうちからまた一冊、今日も人にあげてしまった。それは私がある長い時期、宝物のようにして所有し、読み返した一冊だ。けれど今日手放すことに何の躊躇も無かった。価値が無くなったというわけじゃなく、何だろう。兎に角そうすることがとても自然なことだと思えたのだ。いい手放し方だったと思う。スッキリと別れることができた。もう会うこともないだろう。それでよかった。

■全ての本がこうやって整理できたら何て楽なんだろうと思うが、詩集以外は、どんなに大したことの無い本でも全然手放せないから不思議だ。とても苦労している。何故でしょう。

■年末ですね。けれどあまりそんな気がしない。次にやること、やりたいことをぼんやりと考えてはすぐに眠くなる、そんな日々。

小野寺邦彦

#065 自意識の来た道 2010.12.09.THU


■先日、数人の知人と居酒屋で飲んでいると、中の一人の女性が次のようなハナシを始めた。

『会社内で、最近、女装して出勤してくる後輩の男性社員がいる。会社につくと、化粧を落とし、スーツに着替えるのだけれど、退社時にはまた、女モノの服を着て、化粧をし、時にはウィッグを装着して帰ってゆく』。

それで、彼女はその男性社員の教育係でもあるので、一応問い質したそうである。別に今のところ業務に支障は無いので咎めるわけではないが、若し理由があるのなら教えてくれないか、と。するとその男性社員は言ったのだという。「女性の気持ちが知りたいのです。分りたいのです。別に変態というわけではありません。男として、女性が普段どんな気分で化粧をし、スカートをはいて歩いているのか、それを体験として学習したいのです」と。いわゆる性同一性障害などではナイという。そこでは私は彼女に聞いてみた。「女性の気持ちが分りたいから女装をするのだという、その男性の気持ちを、君は理解できる?」彼女は答えて言った。「理解不能だわ」。

■その夏、私たちは映画を撮っていた。17歳、高校二年生の夏休みのことだ。いわゆる自主制作映画であり、世の中のほぼ全ての自主制作映画がそうであるように、最低最悪の駄作であり、同時に大傑作であった。なにしろそれはゾンビ映画だった。ある日、平凡な男子高校生である主人公が目を覚ますと、家族が全員ゾンビになっている。学校へ行っても、クラスメートは皆ゾンビだ。しかし中に数人、まだゾンビ化していないマトモな男子学生もいる。但し、彼らは全員、女子用のセーラー服を着ているのだ。そしてとまどう主人公にこう言う。「俺たちは、ゾンビではない。実は、幽霊なのだ」・・・全くアタマが狂っていたとしか思えない脚本だが、我々はマジだった。この脚本を書いたのは勿論私である。

■さて上記のようなストーリーなので、男性俳優が女子用のセーラー服を着なくてはならないのだが、ここで問題が起きた。制服自体は理解ある同級生の女生徒から調達してきたものの、そのスカートが短すぎて、パンツが見えまくるのだ。どのアングル、どのポーズ、なんならただ立っているだけなのに、どうやっても隠し切れずにパンチラしまくってしまう。それでは困るのだ。このシーンでは男たちはセーラー服を何の違和感もなく、完璧に着こなしていなくてはならないのだ。男たちがセーラー服を着ている姿がこの世界では最も自然に見えてくる、そういうシーンでなくては困るのだ(書いていてアタマが痛くなってきましたが)。このままでは唯のシモネタ、下品なおちゃらけになってしまう。冗談じゃないぜこれは芸術なんだマイ・ゴッド!

■そこで緊急会議を開いた結果、メンバーの一人が彼女を呼び出し、同じ制服を着込んでもらう次第となった。するとどうだ!全く同じ制服を着ているのに、彼女は全然パンチラしないのだ。一流のサッカー選手のボールさばきが時に「足に吸い付いているようだ」と形容されるように、彼女が如何に動こうとも、あの短いスカートのプリーツその一つ一つが一糸乱れぬ動きでもって、まるでヒップに吸い付いているが如く華麗に纏わりつき、臀部を優しく隠し続けるではないか。試しにもう一度男性俳優に同じスカートを着用させ、彼女と同じように動くよう指示した。まるでダメだ。スカートは言うことを聞かず、初めてサッカーボールを与えられた子供が力いっぱい蹴飛ばしたようにコントロールを失い、無残にパンチラし続けるのだった。

■早いハナシが、男は「その部分」に意識がないのである。自覚した意識のない箇所を制御することは出来ない。これは自意識の問題である。彼女たちは、あの短すぎるスカートを毎日履き続けることでその御し方、コントロールの仕方を実践的に身につけたのだ。その日ちょっとスカートを履いてみた男子に、即座に同じ芸当が出来てたまるものか。身につけるべくは、身のこなし、などという技術ではない。自意識の発見、そのものなのだ。

■世の中には「上手い」役者と「下手な」役者がいるという。その定義はマチマチであるが、しかし見て一発で「上手い」或いは「見てらんない」と思う役者は確実に存在する。それは結局、身体のどの部分、どのレベルまで「意識」できているかということに尽きるのではないか。勿論技術の問題はある。だが技術とは、発見した自意識を制御するために必要なものなのであって、そもそも意識できていない箇所を技術によって制御することは出来ないのだ。より多くの「意識」を高度な技術でもって「無意識に」飼いならしている役者こそ名優と呼ばれるに違いないと今、私は思う。あの短いスカートを履きながら決してその中身を見せることなく毎日を自然に過ごす女子高生のように。自分がパンチラしていることにも気付かない役者を私たちは正視することが出来ない。だからきっと、名優は女装したとしても、決してパンチラはしないハズなのだ。何だか前にも同じようなことを書いた気もするけれど。

■そんなワケで私は、次にまた、件の友人女性に会ったときには聞いてみたいと思う。「女装をするという君の同僚、パンチラはしていなかったか?」と。

■ところで、結局その映画はどうなったのか、といえば、勿論完成しなかった。世の中のほぼ全ての自主制作映画がそうであるように・・・。

小野寺邦彦

#064 とりまの行方 2010.12.01.WED


■夕方、渋谷から新橋へと向う、山の手線内でのことだ。満員の車内で私の前に立ったギャルギャルしい女子2人組みが、次のようなことを言っていたのだ。

「とりま、カラオケでいいんじゃね」
「うん。じゃあとりま、カラオケで」


■とりま、である。トリマーではない。犬の毛を刈ってどうする、それもカラオケで。とりあえずまあ、だ。そのようなコトバがあることは、知識としては知っている。だが、それを実際に使用している会話に初めてナマで遭遇した際に、誰もが抱くであろう感想を、つい私も抱いたのである。

「ねぎまのことを考えてしまう」

■「とり」の部分は即ち「鳥」を想起させるし、鳥で「ま」といえばそれは焼き鳥のねぎま意外には有り得ないのである。折りしも夕方。一日の勤務を終えたサラリーマンでごった返す車内でのことだ。心に抱くのは行きつけの居酒屋、その看板の灯り。良く冷えたビールの一杯と今日も変わらぬおかみの笑顔、傍らにはアテの焼き鳥がそっと添えられている。よし、今日は焼き鳥にしよう。一本目は、断然ねぎまだ。少女たちの会話を耳にしながら、そう心に誓ったお父さんも一人や二人ではなかったハズだ。居酒屋ののれんを潜り、冷たいお絞りで顔を拭っておもむろに、いつだって彼らは言うのだろう。

「とりあえず、ビール」。

前述の少女たちに言わせれば、それは即ち「とりま、ビール」ということになる。だが今日の彼は少し違った。アタマの中で回り続ける「とりま」と「ねぎま」の文字の所為か、思わず口を滑らせてしまったものである。

「ねぎあえず、ビールで」

■「とりあえず、まあ」が「とりま」であるのなら、「ねぎま」は「ねぎあえず、まあ」ということになる。しかし一体何だ、ねぎあえずって。馬鹿にしているのか。しかし何事も無かったかのように注文は通るだろう。真っ赤になって俯く彼の目の先に、いつもと変わらぬ、良く冷えた生ビールが一杯、事も無げに置かれるハズだ。その一杯を飲み干す頃に、コトリと置かれる小皿の上には一本の串が置かれている。そう、ねぎま、だ。彼は思わずおかみの顔を見上げる。その笑顔は、心なしか、あの電車の中にいた少女の片方に似ている気がしたのだった。(おわり)

■安全点検のために目黒で電車が止まり、10分間身動きが取れなかったのだった。やがて電車が動き出し、私の妄想も終わった。

小野寺邦彦

#063 しなくていいことをするヒト 2010.11.28.SUN


■先々週くらいの日曜日。近所の中学校のグラウンドで行われていた少年野球の練習を見かけて、唐突に思い出したことがある。小学生の頃、週に一度、5・6時間目の枠を使ったクラブ活動というのがあって、私は野球クラブに所属していたのだった。

■年度末だったと思う。或る時隣の学区にある小学校のチームと試合をするという事になり、そのためのレギュラーメンバーが選抜された。そしてレギュラーには背番号が与えられたのだ。背番号!私はそれが欲しくて欲しくて仕方が無かった。だが不幸にも、というか、当然の成り行きというか、私は選抜から洩れ、背番号は与えられなかったのである。しかし当時仲の良かった友人K君はメンバー入りを果たした。彼は内野手(ショート)で背番号は「6」だ。

■ところでこのような話がどうも誰かの母親だかの耳に入ったらしく、背番号を与えられる子とそうでない子がいる、というのは問題があるんじゃないか、というようなクレームが入ったようだ。モンスターですね。モンスター親(オヤ)。誰が親をモンスター呼ばわりされて嬉しいものかと思うが、マア、昔からこういう人は一人か二人いるものです。で、次回のクラブの際、監督を務めた若い女性教師はその旨を我々生徒に説明し、配慮が足りなかったと謝罪した。それではということで、全員に背番号を与えるという。おお、背番号。一度は諦めた背番号が棚からこぼれて張り付くのだ。でかしたモンスター!僕のポケモン!と、喜び勇んで受け取った正方形の布に記されていたのは数字ではなく、犬みたいなケダモノのイラストであった。

「レギュラーメンバーは数字。それ以外のメンバーは、かわいい動物ちゃんにしてみましたあ!」

■・・・何が起こったのか理解できない我々生徒のからっぽの脳髄に体育教師の言葉が空虚に吹き抜けてゆく。「先生、これ・・・?」「あ、オノデラ君のはシロクマですね~。よかったねえ。かわいいでしょ!」オ、オレの背番号・・・シロクマ・・・?霞かかった両目の端、親友Kの背中に眩しい「6」の数字が見える。うん。あいつは「6」。で、オレは「シロクマ」・・・。勿論その年限りで私は野球クラブを辞めた。翌年からは図書館で黙々と本を読むだけの読書クラブに入り、めっきり口数の少ない子供に変わっていったという。

■え、このオハナシの教訓はですね。しなくてもいいことをわざわざしてしまう人が世の中にはいるものだ、ということですね。しなくてもいいというか、してくれるなバカ、って感じですが。頼むからよお!大人しくしといてくれねえかなあ!!という人。

■こういううっとおしい人物とは、現実では絶対に係わり合いになりたくない。しかし物語、殊に芝居においてはある意味、必須のキャラクターであるともいえる。こういう人物を置いておくと、ハナシがずんずんと転がってゆく。最近読んだ幾つかの戯曲の中にも、物語の転換点を担う人物として、この手のキャラクターが必ず設置されていました。モノによっては三人、四人、何なら登場人物全員がそういうキャラ、ということも稀ではないのだ。コメディーは勿論、実はホラーやサスペンスものなんかでもその効用を発揮するありがたいキャラです。いるでしょう、余計なことをしてブっ殺されたりする奴。それによって話が次の局面へと進む。

■戯曲というものは、新しい人物が登場することで場面が次の局面へと展開していくのが基本で、展開に詰まったら新しい登場人物が必要なのである(展開に詰まったときこそが、新しい人物を出すための必然的なタイミングともいえる)。但し、その人物が何故そのような「しなくてもいい」行動をしてしまうのか、という点がないと物語に説得力が生まれないワケです。それを何処かにキチンと用意しておく。その点にこそ、その戯曲の支点がある。キモですね。そこがごまかされていると、どこまでいっても唯の都合のいいハナシなんである。嘘のつき方にも根拠が必要、ということ。で、作家は皆この点で悩むし、そこに趣向を盛り込むことが多いのですね。そこがキチンとしてるとしっかりとフに落ちた作品ができる。

■何故、このような言わずもがなのことを書くのか。それは、私の書く芝居が、この「根拠」の部分をぜんぜんないがしろにして書いていることが分ったからである。わはは。敢えて入れてないのではなく、ただ気付かなかったのである。技術的に未熟だったのである。まあその理由もハッキリしていて、芝居の中に詰め込んでいるエピソードが上演時間に比して多すぎるのだ。とても時間内に全部の風呂敷を畳める分量ではないのである。一言で言えば、まあアマチュアだ。アマチュアと甘ちゃんて似てるな。

■なので次からは敢えて無視していこう。何せ気付いてしまったからな。登場人物の行動理念など、無意識に書き込んでしまった場合にはむしろ削除だ。消してくれる。こうしてまた芝居のカタチはいびつになっていくだろう。それでいいのだ。望むところだ。芝居を作るときに必要なものは答えではなく、問いなのだ。質問だけで構成されている芝居、それが見たい芝居だ。

■今日はデカイことを言った。勘弁してやろう。明日からはまた、謙虚な私だ。

小野寺邦彦

#062 10月のこと(その③) 2010.11.22.MON


■10月27日夜、新宿FACEにて「新宿八犬伝 第五巻 犬街の夜」観劇。会場は勿論、新宿歌舞伎町のド真ん中。巨大なグランド・キャバレーの跡地。普段はプロレスとかの格闘技系の興行が行われているような場所らしい。血なまぐさい雰囲気が作品にもマッチしていた。

■新宿八犬伝の完結編。まさか第三エロチカの、しかも新宿八犬伝の新作を劇場で観ることの出来る日が来ようとは。感無量である。あとはブリキの自発団さえ公演してくれれば、私が十代の頃、観たくて堪らなかった劇団の公演はほぼ全て観たことになるのだが。まあ、無理だろうなあ。きっとブリキは無理だ。

■芝居の方は、荒唐無稽とはまさにこのこと。雑多なエピソードがバラバラと未整理のまま、ナンでしょう、作家の生理的なテンポとでもいうのか、独特のテンポで疾走する。緩急というものが無く、突っ走りっ放しのテンション、大きな物語の枠組みをチラリと見せるハッタリ感、チープな肩透かしギャグ。絶叫系の見栄きり芝居。この感じ、まさに80年代演劇的で、作・演出の川村は、かつての自分の作風をパロディーとして自覚的に使いこなして余裕しゃくしゃく、これに成功している。

■そもそもパロディーという技法自体が極めて80年代的だ。芝居の冒頭、棺桶を引きずりながら真っ赤な夕日を背負って登場する主人公のその名も「新宿ジャンゴ」。この幕開きからして「夕日のガンマン」のパロディーなわけです。ジャンゴの経営する探偵事務所の名前は「よろずマカロニ相談所」だし。まずイマの観客にはビタ一文伝わるまい。それを承知で持ってくる。この新宿ジャンゴが、第一巻の主人公、フィリップ・マーロウに対照させられているのは明らかで、そもそもこの第五巻自体が、第一巻へのセルフパロディー、或いはアンサーとして書かれているんですね(このことには後でまた触れます)。劇団30周年解散公演として、まずは鉄板の構え。80年代生まれのくせに80年代演劇のファンであった私にとって、かつて観たかった芝居が全てここにあった、というくらい楽しんだ舞台だった。面白かった。

■で、内容となると、上記のように大小のエピソードが並列で語られてハナシは混乱を極めるわけですが、以下、登場人物の『姫川マキ』と『闇だまり光』のエピソードを主にピックアップしながら大雑把に交通整理をしてみます。あ、いわゆるネタバレというやつです。公演は終わっていますが、戯曲も出版されているので未読の方はご注意下さいませ。

■新宿で「よろずマカロニ相談所」を経営する新宿ジャンゴの元に盲目の姫川マキが依頼にやって来る。逃げ出してしまった自分の盲導犬を探し出して欲しい、と。盲導犬の名はカルマ。一方で、街には謎の男・「世騒ぎの使徒」闇だまり光が現れて、大暴れ。保健所員を殺害し、殺処分予定だった犬を街に解き放つ。警察はこれを追い、街は騒然。さらにはかつて新宿を救ったという、八犬士の噂を取材する東スポ記者の滝沢という女性が手がかりを求めてジャンゴを追う。その取材の過程で爆破事件が起き、かつてのグランド・キャバレー「バルト」の横っ腹に大穴が開く。警察は闇だまり光と共に、この事件も同時に追う。

■ジャンゴは捜査の過程で、姫川マキの探している盲導犬カルマとは、彼女の弟である闇だまり光であることを知る。光はかつて同級生相手に傷害事件を起し、少年院から帰ってきて以来、姉であるマキの目として飼われていた。光は「自分は犬だ」という妄想に取り付かれ、失踪した『恋人』リリ(昔飼っていた犬の名前)から届いた手紙を手がかりに、街に出てきたのだ。

■普通の人間には見えない八犬士のリーダー犬山涼が現れて、姫川マキや闇だまり光、ジャンゴの他に、売れないホストや勃起不全のAV男優、キャバ嬢やヤクザ、ホームレスなど、健全でクリーンになってしまった新宿で、居所を無くし「犬」としての生活を余儀なくされている人々を理想郷「犬街」へと誘う。「犬街」への入口は「バルト」に空いた大穴。登場人物たちは全員「犬街」へ。といったところで一幕が終わり。

■犬街とは、かつての古きよき新宿、それぞれの時代の良いところを再現してごっちゃにした、ある種の理想郷であった。但しそこでは「犬」と「人間」の立場がひっくり返っており、「犬」たちは「人間」を捕獲し、ペットショップで売りさばき、残虐な拷問で迫害を行っている。ちょうど表の新宿で「犬」として扱われていた人々が、犬街ではその人々を迫害しているわけである。犬街とは、「犬」たちの理想郷だったのだ。登場人物たちは、犬街で次々と「八犬士」として覚醒し、人間を狩り出してゆくが、唯一人、闇だまり光だけは(その意思がありながら)八犬士として覚醒することが出来ない。また人間であるジャンゴや滝沢も捕縛され、処分されそうになるが、止めていた酒を呑まされたジャンゴ、アル中が復活し豹変、「納得のいかねぇ人生だぜ。やってられっかよおお!」と流石「夕日のガンマン」、マシンガンを乱れ撃ち(格好良い!)窮地を脱して元の新宿へと帰ってくる。

■ところが戻ってきた現実の新宿もまた「犬街」と化していた。ジャンゴたちが犬街へ行って帰ってくるまでの一月を利用して、八犬士のリーダー、犬山涼はクーデターを敢行、新宿を制圧していた。そして事件の真相が次々と明らかになってゆく。姫川マキの母は、昔ジャンゴが所属した過激派セクトの工作員ヤミヤミだった。彼女は爆弾で新宿中の交番を爆破する計画を立てていたが、直前になってジャンゴ(ゴミゴミ)は恐くなり、組織から逃げ出した。ヤミヤミはジャンゴを「ゴミ」と罵った。その後、製造中の爆弾が誤爆し、ヤミヤミは死亡。傍らにいた五歳の姫川マキも失明した。

■それから25年が経ち、ある日、姫川マキは雑踏の中で八犬士のリーダー・犬山涼と出会う。盲目の彼女の目に、人には見えない犬山涼の姿だけが見えたのだ。犬山涼は姫川マキに言う。「盲導犬を街に放て、さすれば犬街への道が開かれる」と。指示に従って弟の闇だまり光を街に放すと、期待通り、彼は騒ぎを起し、街は混沌とする。さらにはバルトの爆破も、母親から爆弾作りを引き継いだ姫川マキの仕業であった。それらの「世騒ぎ」に乗じて犬山涼はクーデターを決行し、「人間」に対する「犬」の下克上が成る。しかし犬の天下もつかの間、犬街新宿は軍隊に空爆され、八犬士たちは戦うが、何故か第一巻で見せたような超能力(高層ビルより大きくなって戦う!)を発揮できず、無残に死んでゆく。あっという間に鎮圧された新宿は、また元の静けさを取り戻す。

■ほとぼりが冷め、ジャンゴの事務所に滝沢と姫川マキ、そして彼女の盲導犬に戻った闇だまり光が現れる。滝沢は東スポの記者ではなく、姫川マキを取材に来たライターで、今回の物語の全ては姫川マキが語る「物語」を滝沢が筆記することで引き起こされた「彼女の物語」であったことが語られる。姫川マキこそ八犬士の産みの親、伏姫だったのだ。滝沢とは恐らく滝沢馬琴の末裔であり、そもそも「南総里見八犬伝」は盲目となった晩年の馬琴が娘に口述筆記させて作られた物語であった事実になぞらえられる。事の顛末を語り終え、一同がジャンゴの事務所を去ろうとする瞬間、張り込みの刑事が現れて闇だまり光は捕らえられえてしまう。狭いところに閉じ込められるのはもう嫌だ、と暴れる光。「犬が犬を殺しただけだ」と弁明する彼に、刑事が言う。「お前は人間だ。人間だから、人間を殺すことができたんだ」。

■光は捕らえられるくらいならば、とビルから身を投げて自殺。その瞬間、八犬士に迎え入れられて「犬」として転生する。「姉さん、ぼく、犬になれたよ」・・・。とまあ、そんな感じのオハナシです。細かいところはいろいろ記憶違いもあるかと思いますので、戯曲を読んで改めて修正するところは修正するつもりです。いや、大変なんだよ、あの上演を一回観たこっきりで、これだけのストリーラインを整理するのは。まあ、それはいい。以下、ちょっと感想を書きます。

■正直、私はシリーズの第一巻、二巻を過去に戯曲で読んで、あまり面白いとは思わなかった。(三巻、四巻は面白く読んだ)。これも80年代のハヤリと言ってしまえばそれまでなのだけど、登場人物が「メタ構造」や「物語論」を作中でおおっぴらに口にし過ぎるのですね。物語の途中で人物たちが「これは作者が書いたものだ」とか「俺は作者の作った登場人物なんだ」とか言い出してしまう。前半は「新宿八犬伝」という物語を普通に展開していたのが、途中でこの物語自体が作られたものだと言い出し、後半は作者である『影の滝沢馬琴』の書いた筋書きから登場人物たちが逃れるための戦いになってゆく。如何にも脱構築・脱物語・反ドラマが声高に叫ばれた時代の物語だなあ、とは思うのだが、正直なんじゃそりゃ、と一気にシラけてしまいましたね。そもそもやたら物語、物語と言うけれど、その論考がナマのままセリフとして語られているだけで、物語の構造にまで落としこめていない。さらにはそれらの論考が実に凡庸・平凡で浅く、つまらない。論旨そのものに特に見るべき点がないのだ。これより前に書かれた「ニッポンウォーズ」のほうが断然それらの論考を「物語」として構造の中に落としこめているし、その当時としては先進的な内容だったと思う。(全ての行動・感情・記憶がプログラミングで出来ている軍事用アンドロイドが、自らの意思を持って造反を企てるが、それすらもプログラムの一つだった、という筋書き)。しかし川村はこの作で岸田戯曲賞を取る。26歳の若さである。

■以来『新宿八犬伝』のシリーズは、新宿歌舞伎町を舞台にした荒唐無稽な大活劇物語と、その物語を操る作者『影の滝沢馬琴』に抗う登場人物の八犬士たち、というメタ構造を基本のフォーマットに敷き、展開されることになる。第一巻では深夜の風俗営業が禁止(風営法の改正)された新宿歌舞伎町の夜、第二巻は冷戦末期とベルリンの壁、第三巻はバブル経済の終焉と次代への茫洋たる不安、第四巻は都庁移転と副都心の誕生、それに伴うナショナリズム台頭の予感などが物語の背景にある。一見して分るように時代の絶頂期というよりは、その衰退期・終焉期に劇作家のインスピレーションが働くようだ。時代が勢いを失い、つまらなくなってしまう瞬間に現れる八犬士たちは、事件を起して世の中を掻き回し、世間に再び混乱と活気をもたらす役を担わされる。しかしそれすら作者・影の滝沢馬琴が伏姫を利用してコントロールしている事実に気付き、反乱を企てる。すなわち社会と物語を同等の「制度」と捉え、そこからの脱出願望を描いたものがこのシリーズだといえる。

■では第五巻はどうだったか。まず、物語を操る伏姫・姫川マキと影の滝沢馬琴である東スポ記者の滝沢があまり大々的に表に立たず、特に滝沢がストーリーの奥に引っ込んでいたのが良かった。第一巻に比べて物語に対する論考はグっと控えられているし、その論旨も、現代の滝沢馬琴を(自称)東スポ記者、としたことで「書けば書くほど真実が嘘になっていく」「どんなハナシも胡散臭く脚色されてゆく」という点に集約され、面白いところを見せた。さらに第一巻では言葉だけで語られて今イチピンとこなかった「物語からはぐれた登場人物たち」という概念も、ストーリーの中心にいながら、物語の構造からは常に仲間はずれを食う闇だまり光というキャラクターに落とし込められていて見事だった。(望みながら八犬士として覚醒できない、荒唐無稽な物語の中にあってただ一人、一般の殺人者として逮捕という現実的な罰を負う、など)。何よりテーマの大きさに対して芝居全体のトーンが極めて軽妙だ。そう、軽妙。それまでのシリーズに比べて軽さと余裕があるんだ、第五巻には。そこにこそ劇作家・川村の25年間の集積を見る。物語、物語、と口から泡を飛ばして登場人物に語らせずとも、物語論は物語そのもので十全に語れる、という自負が伺える。何より抜群に面白い物語だった。第一巻から25年。自身の物語論に対する落とし前を、見事につけて見せた。

■役者では闇だまり光役の手塚とおるが頭抜けて圧倒的な存在感で、ゾクゾクするような素晴らしい演技を見せた。新宿ジャンゴ役の小林勝也も重厚なんだか、浅薄なんだかようわからん食えない親父ぶりを魅力的に演じていて楽しい。犬山涼役の丸山厚人も良かった。勿論有薗芳記、笠木誠の往年の第三エロチカ主要メンバー登場も嬉しい。日替わりゲスト出演の役「暗がりママ」は、故・深浦加奈子さんに充てた役だったのかな、と思ったり。

■観劇から既に一月近くが経ったが、「第五巻」の余韻は今もうっすらと体の中にある。劇中流れる八犬士のメロディー、その一節がまだ耳の奥に残っている。

僕たちは生きている 忘れられても生きている
私たちは生きている 街が死んでも生きている


■あれ、さらに長くなった。書くのに一時間半もかかった。誰が読むんだ一体。イロイロとネタも溜まってしまったので、次回からはいつものノー天気な日誌に戻ります。推敲もする。11月も終わってゆく。

小野寺邦彦

#061 10月のこと(その②) 2010.11.06.SAT


■前回からのつづきです。

■23日夜、座・高円寺にて遊園地再生事業団「ジャパニーズ・スリーピング 世界でいちばん眠い場所」観劇。千秋楽前日で客席は満席。「ニュータウン入口」以来3年ぶりの宮沢章夫作品。期待に違わず、素晴らしい舞台だった。芝居の間中、刺激されっぱなしで頭の回転が止まらない。眠りと死のドラマ。美しい美術、映像、ミニマルミュージック。引用とインタビューからなるせりふ。一つ一つの要素が触媒となって、今私が考えていることにも次々とリンクされてゆく。頭の中にバラバラにある、雑多な考えに線が引かれて繋がってゆく。世界が現れてゆく。

■まず、フライヤーが素晴らしいです。ドラマの予感を感じさせる、美しい写真。舞台は上手と下手に複数台のテレビモニターが設置されており、出番のない役者が腰掛けて待機。ステージ中央に長椅子が一脚。舞台奥と床面は鏡張り。舞台奥の鏡面(金属打ちっぱなし風)に大きく、様々な映像が写る。内容の方は、眠らない男、今まさに眠っている女、いつも眠っている男、異常なほどよく眠る女、そしてセカイで一番眠い場所をしっているという女などが現れて「眠り」に纏わるエピソードや独白、引用やインタビューなどが断片的に、時には繰り返し語られる。ハッキリとしたストーリーはなく、いわゆるコラージュ的な作風。各エピソードごとの繋がりはそれほど強くはなく、「眠り」というキーワードやいくつかの共通する情報がそれぞれのイメージを繋げてゆく。デジタルビデオ・カメラを使用した映像の使い方が練られていて、面白い。「ニュータウン入口」とはまた違った使い方。役者を生中継する。唐突にインタビュー映像が挿入される。客席をライヴで録画撮影し、すぐさまスクリーンに大写しすることで「観る→観られる」の関係をひっくり返してみせる。夢の中で自分の姿を見る、あの感覚。あらゆる手段で目の前の芝居、それ自体が夢のように脈絡なく展開していく。覚醒しながら見る夢。妙な道徳観があったり、中途半端に論理的だったりするところが、また「らしくて」おかしい。

■とは言え、終盤には一応の御褒美というか、「物語」らしい、全体を統一する枠組み(ストーリー)らしきモノも見せてくれるので安心。サービス満点だ。その「物語」とは、芝居の冒頭から何度か出てくる「男女八人の練炭自殺」のエピソード。男女八人が群馬県の山中、品川ナンバーのレンタカーとバンの車内で練炭自殺を図った、というウェブサイト上でのニュースが繰り返し読まれる。そしてその際、舞台上に腰掛けている役者の数も、インタビュアーとそのアシスタント、製薬会社の会社員を除いた八名。つまり彼等こそ、練炭自殺をした八人の当事者なんだと読めるわけですね。その八名のうち、ある者はすんなりと死(=眠り)を受け入れて眠り続け、ある者は「今まさに眠ろうとして」おり、そしてある者は「眠ることが出来ない」。死が理解できていないのですね。だって、今までに死んだことがないから。

■死ぬのが初めてなので、「死」の状態が理解できない。理解できないものを認識することは出来ない。この「死」が「眠り」に置き換えられていると見れば、つまり「眠ったことがない男」というのは正確には「眠り(=死)を理解していない男」というわけですね。「眠り」が分らないということは、相対的に「寝ているのか起きているのかも分らない(判断できない)」わけで、即ち「今、自分が生きてるのか死んでるのかすら分らん」というわけです。対照的に、一番「死」に近い、あるいは受け入れている「今まさに眠っている女」「異常なほどよく眠る女」の二人がやたらとエロく演出されているのも、暗喩的です。「生」から一番遠い人物たちが、最も肉感的で「エロい」ことが強調されます。云うまでもなく、「エロス」と「タナトス」は隣同士にあるわけですからね。

■そして芝居のラスト。セカイで一番眠い場所というのはつまり、他でもない「ここ」のことなんだ、とついに暗示される。今、あなたの立っているその場所こそが「セカイで一番眠い場所=死の現場」である、と。ここまでの過程の全ては、つまりそれに気付くまでの物語。インタビュー、エピソード、引用、独白などのレッスンを通して、死=眠りについての理解を試みる、そういうハナシであった、と。終盤のやり取りの中で、「眠らない男」が「今まさに眠っている女、」にペットボトルの水をかけるのも、死者への追悼、というか「献水」とでも言いましょうか。いわゆるお彼岸とかに墓石にひしゃくで掬った水をかけてあげたり、交通事故の現場の道端とかに花束と飲み物が備えてあったりしますが、ああいったイメージに取れて、綺麗にストンと着地しました。

■そこまで思い至って、もう一度この芝居のフライヤーを見るとですね。




ちゃんと全て写っているのですよ。恐らく「群馬県山中で練炭自殺を図る」直前なのであろう人々の姿が。(クルマのナンバーが品川ナンバーかどうかは確認できず)。それに気付くと、この写真が途端に物凄く哀しいものに見えてくる。怖くもある。文脈が全く組み変わって見えてくる。予感を秘めた美しい写真の正体は、実は死ぬために集まった人々のポートレイトだったわけだ。あるいは事前に適当な場所を探すために視察に来たときの様子なのかもしれない。そんな雰囲気もある。こういう仕掛けを芝居の始まる前に仕込んでいるところが憎い。上手いなあ。まんまと手の平の上だ。

■だからまあ、極めて皮相的に、「お話」として分りやすくこの芝居を理解しようとすれば、「ネット上で知り合い練炭自殺を図った8人の男女のうちの一人(あるいは複数人)が、自分が死んでいることに気付かず、(或いは初めて死んだので死というものを理解しておらず)インタビューや文献の引用を通じて、「死」という現象を理解し、自分が死んだのだということを理解してゆく(或いは思い出してゆく)話」と取れる。勿論、これは表現の「上澄み」であって、ストーリーを理解するという性質の芝居ではないのだけれど、「どんな話だったの!意味わかんない!」という「無意味アレルギー」の方も安心。ちゃんと「答え」は用意されています。

■謎解きのようにストーリーを追うことも出来るし、それこそ夢のように無意味なコラージュの連続としても楽しめる。あらゆるアプローチ、レベルで解釈が用意されている。多層的に楽しみ方が用意されている。エロだってある。(兎に角エロいんだ女子が)。これがサービスというものです。1時間50分、おなかいっぱい楽しんだ。観終って、ふーっと息をついてしまった。やっぱりプロは凄いよ。思索のプロフェッショナル。思索の過程、そのものを作品にしてしまうその手腕。しかも口当たりはなめらかで、「難解」さからは程遠い。さらりと凄みを見せ付けられる。そうだ、凄みだ。到底かなわない、特別な「凄み」。それがとても心地よく、嬉しいのだった。これで前売り4500円は安い。安過ぎだ。学生なら3500円。芝居を観て「安かった」という感想が出ることは(例えそれが1000円の芝居であっても)滅多に無いことだ。おいしい食事一回分より断然この芝居を取るね、俺は。

■サラっと触れるつもりがつい書き込んでしまった。1時間以上もブログの文章を書くなんて、初めてのことだ。ちょっと書き過ぎた気もするし、全然書き足りないような気もするな。今回触れられなかった、芝居の「外」からやって来る人物たち‐カメラマンやそのアシスタント、製薬会社員のエピソードなど、幾らでも書けるんだけど、まあ、キリがないのでここまでにしておきます。

■10月のこと、予想外にも、もうちょっと続きます。次回はもう一本の芝居、第三エロチカ「新宿八犬伝 第五巻 犬街の夜」について書きます。なるべく簡潔に。なるべく早いうちに。何せもう11月だ。げっ、何と11月だよ。早く書かないと12月になってしまう。シャレにならない。シャレではない。

小野寺邦彦

#060 10月のこと(その①) 2010.10.30.SAT


■朝から激しい雨風。台風が来ている。

■夏から秋を飛ばして冬になったと思ったら大型台風。まるで自分の知らない別の国に住んでいるみたいで、とても楽しい。毎年、全然違う気候だったら楽しいだろうなあ。年の初めには一年の季節を読むのが流行る。今年は一年、冬だろうとか。この先10年は雨だぜ、とか。農家は困るだろうが国民性はファンキーになる。日本人の多くが概ね真面目で大人しい性格なのは、きっちり四回、折り目正しくやってくる季節にも原因があるのではないか。一年中春と夏しかなかったら俺は間違いなく馬鹿になる。右手に桜、左手にはスイカだ。馬鹿がまかり通る。

■さて、この10月は大変にのんびりと過ごした。公演後、大きく体調を崩してしまった夏。それを立て直すために一ヶ月、思い切ってほとんど何もしなかった。長い長い一ヶ月だった。驚くほどゆっくりと時間が過ぎた。眠くなったときに眠り、目が覚めるまで眠った。ここ5年間ほど無かったことだ。それでも時間はこぼれるほどにある。本は50冊以上も読めたし、映画も20本観た。小説はピンチョンの「メイスン&ディクスン」、「ヴァイン・ランド」。ヴォネガット「タイタンの妖女」、カルヴィーノ「宿命の交わる城」「不在の騎士」。他に「妻の超然」「「悪」と戦う」「リア家の人々」「アメリカの鳥」などなど。

■映画は何と言っても「十三人の刺客」だ。これは凄い。凄かった。思わず震えてしまったほどだ。何に震えたのかといえば、真っ向から「時代劇」を描いて臆するところがないというところ。はっきりと映画であるというところ。テレビドラマとは全く違った、映画としての作劇術。客を舐めていない。おもねっていない。武士の所作、剣豪の解釈、その情報量。驚くほど多くのことを教えてくれて何より抜群に面白い。これが映画だ。祝福されるべき映画だ。誰に?勿論、観客に、だ。忘れた頃に、また観たい。

■先週末は多摩美での講義。これも面白かった。思った通りのシドロモドロだったが、大勢の人の顔を見ながら話をするというのは大変に刺激的だった。口から出任せばかりベラベラと喋っていたらあっという間に時間になった。まあ半分くらいの学生は寝ていたけどね。それは仕方が無い。授業を始める前にもう10人くらいは寝ていたし。さらに映像やプロジェクターを使うために教室が暗くなる度に次々と眠りに倒れる学生たち。気分は殺し屋である。ふふふ、次は何人眠らせてやろうか。まあせめて安らかに眠れ、学生。命より大事な単位を取るがいい。夢の中でな。

■授業後、質問に来てくれた学生もいた。中で一人の女子学生は、喋り方に全く余裕がなく、マシンガンのように自分の言いたいことを早口でずっと喋り続けていた。何か怒っているかのような口調で、適当に相槌を打つ僕の回答は彼女には不満であるようだった。僕は詰問されているようでドキドキした。それは質問というより、言葉をぶっつける相手を探しているという感じだった。全力の言葉だ。青筋が立って震えているような言葉だ。それが不快だったかと言えばそうことでは全くなく、むしろこの人の言いたいことをずっと聞いていたいとすら思った。この言葉に打たれ続けたいと思った。なんかマゾみたいだな。

■これは勝手な思いなんだけど、恐らくこの人は今までずっと、言いたいことを言う相手がいないまま、溜め込んできたのではないかと思う。大学に入って今、それが初めて炸裂しているのではないか。だから喋って喋って、一通り喋り尽くしてもう喋ることが無くなった後に、彼女から出てくる一言が聞いてみたい。それがきっと、彼女の初めての作品になるハズだ。何故こんな偉そうなことを言うのかと言えば、私自身がまさにそういう学生だったからだ。人を捕まえてまあ本当にしょうもないことをベラベラと喋り捲った。授業にも出ず、出ても眠り、単位を取りこぼし、あのコと口を聞いちゃいけませんと指差されながらも喋り続け、ついに喋ることが無くなったとき、ヒマになってしまって、初めて芝居を作ったのだった。そのときはもう大学も三年になっていたけど。

■そんなこんなで楽しく過ごした10月。そして勿論、芝居もイロイロと観た。中でもちょっと他とは一線を引かねばならない、個人的に大変感慨深い芝居を月末に二本、立て続けに観ることが出来た。これはまた項を別にして書かなければならない。私にとっては特別な作品だ。その芝居とは、遊園地再生事業団「ジャパニーズ・スリーピング 世界でいちばん眠い場所」第三エロチカ「新宿八犬伝 第五巻 犬街の夜」の二本である。
(つづく)

小野寺邦彦

#059 多摩美術大学で講義します 2010.10.21.THU


■阪神はダメだった。もう本当にダメだ。ダメだなあ。何がダメと言って、こんなにダメな巨人に歯が立たなかったことがダメで仕方が無い。猛省を促したい。

■そんなわけで唐突ですが、明日(22日)に多摩美で講義します。講義というか、まあ何かぼそぼそ喋るだけ、という感じになるとは思いますが。総合講座デザイン論というやつです。すいません、授業の趣旨をあまり明確に理解してないのですが。2時半くらいなのかな?どうもロクなことにはならない気もしますが、多摩美の学生の方はまあ、お手柔らかに宜しくお願いしますね。

■で、その講義で使おうと思って、今日は夕方から、以前の舞台の資料や台本、録画映像などを観ていたのだが、意外なほど楽しんでしまった。何しろほとんど何も覚えていない。本当に覚えてないのだ。このハナシはこの先どうなるんだろう、とか、ああここはこうすれば良かったのに、とまるで他人の作った作品のように観てしまった。そして、まあバカみたいなこと言いますけど、それはイチイチ僕の好みにあった舞台なのですね。僕が作ってるんだから当たり前なんですけど。勿論いろいろ未熟だし、チープなんですけどね。もっと恥ずかしくて見られないかと思ってたんだけど、そんなことは無かった。楽しめた。

■その理由の一つはきっと、舞台は私独りの作品ではないからだ。100パーセント自分だけで作った作品だったら、ここまで冷静には観られないだろう。他人が作った部分が凄く多い。本当にいろいろな人が関わってくれている。単純な作業量からいえば私の作っている部分は全体の半分もない。多くても三分の一くらいだろう。頭が下がる。本当に下がるよ。特にスタッフには迷惑しかかけていない。迷惑をかけるために生まれた迷惑生産マシーンだと言われても否定できない。ひしゃくで迷惑を掬ってはぶっかけて回る男。この迷惑でも喰らえ!脳裏に浮かぶアノ人、ソノ人。思い出せば皆、私の撒き散らした迷惑を頭から滴らせながら作業をしてくれていた。私がしたことといえばデカイ顔くらいだ。まあ元からデカイんだけど。

■不思議なことに芝居の内容そのものはほとんど何も覚えていないのに、その公演中に交わした会話や飲みにいった店、あるいは小屋入りの朝、徹夜で打ち合わせをした後、朝食を買いにコンビニまで歩いたときの空気などはありありと思い出すことが出来る。『思い出作り』のために芝居をすることだけはしたくない、そう思ってきたし、今もそう思っている。しかしそんな私の意志とは無関係に、思い出は凄いスピードで後ろから付いてくる。甘美な誘惑に足を取られそうにもなる。それを振り切る方法は唯一つ、次の新しい芝居のことを考えるしかない。本当にそれしかないのだ。

■そんなわけで明日は私なりの「物語」について話そうと思います。物語を書いている、或いは興味のある多摩美の学生さん。宜しければ是非あなたの「物語」も見せてくださいね。楽しみにしています。そういえばそろそろ芸術祭のシーズンだった。演劇部の公演も観に行く。楽しみだ。

小野寺邦彦

#058 死とネタ 2010.10.08.FRI


■昼間テレビを点けていると、あらゆるチャンネル、番組、CMで嫁と姑が争っている。

■だが実際に嫁と姑が争っているところなど見たことがないなあ、などとぼんやり思ったが、よくよく考えればそもそも嫁も姑も見たことがないのだった。よくあるんだ、そういうことは。

■図書館で新聞を開くと、隣り合って掲載されている連載コラムの内容が、共にある人物(それぞれ別人)を追悼する内容であった。そしてその中身は、ほとんどコピーしたんじゃないか?という程似かよったモノである。故人の名前だけをそのままに、そっくり入れ替えてしまっても誰も気付かないような文章である。

■新聞や雑誌などのコラムでの追悼記事、というものに長い間違和感を抱いてきた。

■連載コラムというのは毎日・毎週、定期的に特定の筆者が書き続けるものだ。当然、筆者は常時「ネタ」を探している。仕事として、自分に与えられたワクを埋める「ネタ」だ。誰かが死ぬ。有名人であったり、何かの功労者であったりする。時には犯罪者だったりもする。格好の「ネタ」である。そして、調べて、何かそれらしいことを書く。今回のワクが埋まる。一丁上がりである。そして一瞬で忘れ去るに違いないのだ。

■数年前のこと。ある人物のコラムを纏めたものを読む機会があった。週刊誌に2年に渡って連載されたものだ。一読して驚いたのは、その内容の四分の一程度が「追悼」文で埋められていたということだ。実にさまざまな職種・業種のヒトビトが次々と追悼されてゆく。何か自分に絡めたエピソードを披露して(それはほとんどの場合、故人と直接関係のない、個人的で一方的なエピソードである)最後に「冥福を祈る」云々。判で押したような「埋め草」である。人の死が、そうやって使われてゆく。消費される。

■客観的に考えて、一人の人間が(或いは一介の物書きが)、そんなに多くの人間と生前深い付き合いがあったとは到底思えない。追悼文を書く、というのには資格があると思う。本当の意味でその資格を得る機会は、人生でも一度か二度、あるかないかのハズだ。

■いつの頃からか確立してしまった追悼文というフォーマットが、作家、エッセイスト、コラムニスト、ライター、編集者、その他締め切りに追われる物書きたちの、その場しのぎの格好のネタになっている。それは事実である。胸の悪くなる事実だ。

■私は別にモラリストではない。ただ「死」というモチーフの扱い方の、あまりの杜撰さ、横着さに辟易するだけだ。小説、映画、ドラマ、芝居、ゲーム。あらゆる物語の中で人が死ぬ。殺される。多くは杜撰に、安易に。涙を搾り取るネタとして。ドラマを盛り上げるアイテムとして。物語とは、「つくりもの」である。しかし今、私はこう考える。

物語で一人の人間が死ぬとき、現実にも人が一人死ぬのだ。

誰か、この言葉の意味が分るだろうか?私にはまだよく分らない。これは直感だ。しかし、正しい直感である。その自信がある。それを証明するために、次の芝居を書く。だがそれはまだ、随分先のことだ

■この一月、ずっと死について、考えている。まだまだ考える。

小野寺邦彦